雪 ────蘇宅ノ一日────
━━━嫌だ。━━━━━
━━━飲まない!。━━━━━
藺晨には太刀打ちできない。
こうなっては逃げるしかないのだ。
「ほら、飲め!。」
藺晨は器に分けられた薬を、ぐいっと飛流に近づける。
「飲まない!」
飛流は、立ち上がりながら差出された器を払って、藺晨の脇を通り抜け、開け放たれたままの部屋の口から飛び出した。
━━━逃げなきゃ。━━━━
そのまま外に逃げた。
「飛流、逃げても無駄だぞ~~。」
笑いながら、悠々と追ってくる。
怖い、、、、怖すぎる。
藺晨の姿が見えなくなった。屋根に飛んで、どこか隠れられる場所を探す。
塀と門の屋根の隙間に身を隠した。鼓動が大きくなる、藺晨にも聞こえて見つかってしまいそうだ。
「ほら、飲まぬと治らぬぞ。」
薬の入った器が目の前に突き出される。もう見つかってしまっている。
「うわぁぁぁぁぁ!」
隙間を抜け出し、屋根から庭に下りた。
「無駄だと言ったろう。」
━━━━蘇哥哥、助けて。━━━
長蘇に助けてもらうしかない。
「蘇哥哥────」
そこで、藺晨に首根っこを掴まれてしまった。
「あああっっ。嫌だ。」
「飲まない。」
藺晨の手を振り払おうと、どんなに暴れても敵わない。
「長蘇はもう寝てる。だから来ないぞ。ほら、諦めて飲め。」
「自分一人で、飲めなけりゃ、私が飲ませるか?」
いつも楽しそうだが、ことさら楽しそうである。
熱のせいか、歯がゆい程に、抵抗も出来ぬし力も出ない。もう、飲むしか無いのだろうか。
━━━━助けて!━━━
藺晨が、器を口元に近付ける。
「ほらほら、」
飲むまいと必死に藺晨の手を退けようとするが、藺晨の力には敵わない。
━━━━いやだ!!━━━━
「止めよ、飛流が嫌がっている!」
長蘇の声である。藺晨の背後から聞こえた。
「なんなのだ、長蘇。」
「私は飛流の風邪を治したいだけだ。」
「風邪なぞひかせよって!」
振り返りながら、藺晨は長蘇を睨む。
━━━━蘇哥哥━━━━
助けに来てくれた。
「長蘇、お前には治せん。」
「なのに止めると言うのか?」
長蘇が、ずいずいと近付いて、器を持った藺晨の手首を掴み、その手を藺晨の後ろ手にして締め上げる。
いつもの長蘇からは考えられない、見事な動きだった。
「ああっっ、イタタタタ、、。」
藺晨が耐えきれず声を上げた。
「お前の薬でなくとも、飛流の風邪は治る。」
「分かったか?」
そう言って更に締め上げた。
凄みをを効かせた長蘇にたじろき、遂に藺晨も音をあげた。
「分かった分かった。飲ませぬ。飲ませぬから許してくれ。」
━━━━蘇哥哥が勝った━━━━
本当は強かったのだ。
長蘇は、音を上げた藺晨を解放する。
「飛流、薬だ。」
そして、懐から紙包を出して飛流に渡す。包を開けると、胡桃の入った甘い餅だった。
「飛流の薬はこれだろう?」
飛流も満面の笑みを向け、長蘇も嬉しくなり温かな微笑みを向ける。
餅を一つ摘んで、口に入れた。
━━━━甘い!!━━━━
また一つ頬張る。今までの酷い出来事が嘘のように幸せになった。
「飛流、私にはくれぬのか?」
悪戯っぽく藺晨が言う。、、、あげたく無かった。
「む〜〜〜〜っ」
膨れっ面になり、長蘇を見ると、可笑しそうに笑っている。
しかたが無いな、あげてもいいか、、、という気になり、一つ渡した。
「ケチケチするな。」
藺晨は、強引に包からもう一つ取っていった。ぽいと口に入れながら喋る。
「味は悪くないな。」
「あ───っ、、、、」
あっという間に取られていった。
「蘇哥哥〜〜。」
訴えたが、長蘇は目を細めて笑っていた。楽しそうに笑っていた、、、、、。
暗い部屋の中で目を覚ます。
頭がはっきりしない、
━━━━どうしたんだっけ、、━━━━━
そうだ、熱が出て、寝ていたのだ、、、、。
なんだか、大変で、楽しい夢を見ていた様な、、、、、、。
━━━━この、気配、、、━━━━━━
だから、目が覚めたんだ。
飛流はむくりと立ち上がった。
長蘇は寝台で横になっていたが、眠ってはいなかった。
すうっと廊下からの戸が開き、人が入ってきた。
その者は真っ直ぐに長蘇の元へと進んできた。
長蘇の枕元に来ると、その者は寝台の下へ膝まづき、枕元に頭を載せて突っ伏した。
「飛流!」
「どうしたのだ、熱は?、大丈夫なのか。」
長蘇は驚き。少し体を起こし、飛流の頭に触れる。
温かい、、、幾らか汗ばんでもいる様だった。
もう熱はすっかり下がっている様だった。
間もなく、部屋に黎綱が入ってくる。
飛流を見て、黎綱もまた驚いていた。
「飛流、ほら、部屋で眠れ。」
黎綱が、腕を掴んで、立たせて連れて行こうとするが、飛流はその腕を振りほどき、元のように枕元にうずくまった。
「飛流、宗主に風邪が伝染る、さあ。」
もう一度、連れていこうとするが、同じ事だった。
「どうしたのだ、何かあったのか?」
黎綱によれば、少し前に蘇宅にまた刺客が侵入したが、黎綱が対応するまでも無く、飛流が追い払ったと言うのだ。
何者かが侵入したのは分かっていた。だか、こちらから撃退した者が、誰か分からなかった。
黎綱の足音とも違う、無論、飛流の脚さばきとも違っていた。
道理で分からなかったは筈だ、具合の悪い飛流だったのだ。
また、黎綱が連れ出そうとする。
「こんなに体が冷えてるじゃないか、部屋でゆっくり眠れ、後は私がお守りするから。」
刺客が去った後も、蘇宅の周囲を見回ってきたのかも知れない。
飛流は頑として抗い、長蘇の枕元から離れようとしない。
「良い、」
「熱も下がった様だし、飛流はここにいたいのだ、」
「嫌になれば、自分で部屋へゆくだろう。」
具合が悪いのに、侵入者を許さなかった。
飛流の責任感だったのか、自分が長蘇を守るという自負心だったのか。
、、、、、ただ、驚いた。
黎綱に、布団持って来させる。だが、その前にいくらでも暖かくしてやりたい。
「そこに、私の外套があったろう、飛流に掛けてやれ。」
黎綱は言う通りに、飛流にいつも長蘇が身につける獣毛が襟元に付いた外套を掛けてやり、布団を取りに行く。
驚いた。
────こんな事をする子だとは思わなかった。────
さっき、蝋燭の明かりに見えたのは、真っ赤な飛流の裸足だった。
靴も履かずに飛び出したのだ、長蘇を守る為に。
────今晩は冷え込む、裸足では痛かったろう、、。─────
「飛流。」
飛流が、ゆっくりと頭を上げて、半身を起こした長蘇と視線が合う。
何を言われるのだろうか、と、不思議そうな顔をしている。
「飛流、漢だったな。」
そう言われて、満足したのか笑みが溢れ、また同じように両腕を組んだ上に頭をのて、、、、飛流はこのまま眠るのだろうか。
長蘇は寒くない様に、外套の襟を耳の上まで引き上げる。体と外套の隙間から、風が入らぬ様。
そして飛流の頭を撫でた。
複雑な心が、長蘇の中で混ざり合う。
程なく黎綱が、布団を持って部屋に入り、外套の上から飛流に掛けてやる。
「宗主も、お休み下さい。」
飛流を眼下に、体を起こしていた。部屋の空気は冷たく、長蘇の体も冷えてしまった。
作品名:雪 ────蘇宅ノ一日──── 作家名:古槍ノ標