五十音お題。
カ行
かぜひいた。(シズちゃんと幽くん)
朝から咳が止まらなかった。
「げほっ、ぅ、あ……」
反射的に口を覆うが、指の隙間から咽ぶような空咳と喘ぐような声しか出てくるだけで苦情の一つさえも発せられなかった。
「今日は幽と出掛ける日だってのによ……」
俺と幽が兄弟であるとバレないように用意してもらった、バーテン服じゃない洋服や明るい茶色をしたウィッグを身に付けて一秒でも早くこの部屋から出て行きたいのに、その気力さえも起きなくて布団の上に寝そべっていた。
迎えにいくから兄さんは待ってて、と言われたものの本来は池袋まで出向くつもりだった俺からしたら申し訳なさで一杯である。
がちゃと渡してあった合い鍵でドアを開けられた音がして、軽い足取りがこちらまで聞こえてきた。
「……台所使っていい?」
寝っ転がっている部屋に来る途端にこれである。理解が出来ないままにぼーっとした頭で許可すれば、小さく呟いた幽はなにを思ったのか部屋から出て行って扉を閉める音がした。兄貴のこんなにも情けない姿を見て幻滅をされたのだろう、と俯いたままに思案した。けれど立ち上がる来さえ起きずに布団にのたうち回っていた。
「ただいま」
台所にがしゃん、とビニール袋を置いた幽はこちらにひょっこりと顔を出して首を傾げていた。
「……悪ィな。せっかく出掛ける約束してたっつーのによ」
「…………別に」
さして気にしていない風に言えば台所へと消えていった。リズミカルに聞こえる包丁を振り落とす音がしてきて、どうやら料理をしてくれているらしい。全く兄思いのいい弟を持ったものである。
布団の上を這うように移動して、台所の方を仰ぎ見れば野菜を叩ききる音と、ぼそぼそと言葉を発していた。耳を澄ますと「ノミ虫」やら「殺す」やら呪詛のように呟いていた。俺が臨也が嫌いだ嫌いだ言っていたのが弟にも電波してしまったようだ。
いつもなら便乗するのだが、今日の体力がない状況では毒気に当てられそうなので大人しく布団に戻る事にした。
「俺の兄さんは、誰にも渡さない」
幽という名前の如く、消えそうな音量で呟いた言葉は、きっと静雄には聞こえていないであろう。