『雨上がりの夜』
「律子・・・さんは、どうしてアイドルをやめちゃったの?」
「えっ?」
そうこうしているうちに、美希のほうから尋ねてきた。
「あんなに楽しそうにアイドルをやってたのに、いきなり辞めちゃうんなんて。」
そうだ。私はかつて、美希や他の子と同じようにアイドル活動をやっていたのだ。だけど、それも今は廃業した身。
「もともと私は事務員になるつもりで、ここに入ったのよ。みんなのサポートをしたくてね。だけど、私がここに入ったころの765プロは、今よりもっと貧弱だった。それこそ、アイドルの頭数にも困っていたぐらいだった。だから、社長に頼まれて、私も『事務員兼アイドル兼プロデューサー』として活動していたってわけ。だけど、今はもう、頭数は揃ったし、私自身もアイドルとしてはパッとしなかったし、プロデューサー業も板についてきたから、アイドル業の方は、引退させてもらったってわけ。」
「それで・・・後悔しなかったの?」
美希の顔が暗くなる。私のほうに目を合わせず、机のほうをぼーっと見つめている。
正直な話、未練はあった。私がアイドルを引退するとき、社長が私を気遣って、最後にファンのみんなとのお別れライブを、六本木の小さなライブハウスを借り切ってやってくれた時のことだ。どうせ、私なんかのために人は集まらないと思っていたのに、その時のライブには、ライブハウスに入りきらないくらいの人が駆けつけてくれたのだ。
私は最後に号泣した。こんな冴えない私の引退ライブのために、これだけ多くの人が集まってくれた。ファンの人たちも、一緒に泣いてくれた。私にとって、一生忘れることのできない思い出だ。
その日以降、私はプロデューサーとして、『竜宮小町』を育てる側に回った。最初は、無名だった『竜宮小町』も、今やテレビに出してもらえるほどの知名度にはなりつつあった。プロデューサーとして、誇らしい。だけど、つい夢想してしまうのだ。もしも私がアイドルを続けていたら、あの撮影所のスポットライトを浴びていたのは、私なのかもしれないと。
プロデューサーとして彼女たちを支えていくというのは、私の天命だと思っている。だから後悔はしていない。だけど、ふいにそう思ってしまう時があるのも事実なのだ。
「後悔は・・・していない。」
それが美希への回答だった。
「でも、心残りなんでしょ。」
「・・・・・。」
美希は賢い。美希はなんでも見通してしまうのだ。私の心の中さえも。
「だけど、もう遅いの。今更アイドルなんかに戻れるはずがない。『竜宮小町』だってある。」
美希は私の目を見て訴えかける。
「戻れるよ。きっと。律子さんにその気があれば。だから・・・」
「勝手なこと言わないでよ!」
思わず、声を荒げてしまった。美希がひどく怖気づいたのが分かる。
私は美希から目をそらした。
「ごめん、美希。どうかしてた。」
美希は微笑を浮かべていたようだ。
「ううん、いいの。美希も悪いこと聞いちゃったし。」
私は美希のほうを見て、首を横に振った。
「美希は悪くないよ。」
またしても重苦しい雰囲気に包まれる。美希がカップに手を付けて、残りのお茶を飲みほした。そしてカップをテーブルに置くと・・・、ゆっくりと今日ここに駆け込んだ真相について話し始めた。
「律子さん・・・ミキ、アイドルやめようと思うの。」
えっ!?
驚天動地のことに、言葉を失った。私は驚いた様子で美希を見つめた。
「どうして・・・どうしたなの!?あんなに楽しそうにやっていたというのに。」
「・・・・・。」
美希はそこから先を語ろうとしない。意を決して話し始めたのは良かったが、そこで勇気が途切れてしまったようだった。
そんな美希に私は、追い立てるように質問をぶつけた。
「ねえ、美希。今日散歩していたっていうのは嘘でしょ。」
「・・・・・。」
「今日美希はオフだった。こんなところをほっつきまわる必要がない。それに、雨が降り出したのは、美希がここを訪れる数時間前、急に雨に降られたなんてありえない。」
「・・・・・。」
「ねえ、美希。本当のことを話してほしいの。もしかして美希は今日、逃げ出してきたんじゃないの。ご両親のところから。傘さえささず、一目散にここに逃げてきた。違う?」
「・・・・・。」
私は時計を見る。時刻はすでに9時を回っていた。
「どうして私が美希の自宅に連絡を入れないかわかる?」
「・・・・・。」
「美希が話してくれるのを待っているからなのよ。美希がここに逃げてきたのはわけがある。多分、ご両親とかのことで、私に相談したいことがあったんだと思う。私はずっと残業続きで、ここに私がいるのは知っていた。だから私に・・・相談しようと思ったんじゃないの。」
「・・・・・。」
「訳を話してちょうだい。美希が話してくれないなら、私はご両親に電話をして、美希を引き取りに来てもらうわよ。」
美希が吐き捨てるように答えた。
「パパもママも・・・ミキのことなんて心配していないの。」
ぼーっとして、抜け殻のようになってしまった美希が、か細くそうつぶやいたのだ。
「なんですって。」
「電話なら、すればいいの。」
あけすけに、突き放すように答える。だけどそれは、私に対してではない。恐らくは私が電話をしようとしている、その相手に対してだ。
「本当にかけるわよ。」
「・・・・・。」
沈黙の肯定を受け取った私は、立ち上がって自分のデスクに戻り、受話器を取った。しばらくして、美希の母親が電話を取った。
「星井ですが。」
「夜分遅くにすいません。私、765プロダクションでプロデューサーをしています、秋月と申します。いつもお世話になっております。」
「こちらこそ。」
「それで、美希さんなんですけど、雨に打たれていたところをこちらでお預かりしておりまして、夜遅くに一人で出歩かせるのも危ないので、お手数ですけど、こちらまでお引き取りに来ていただけないでしょうか。」
丁重に願い出たつもりであった。だが、その次に母の口から放たれたのは、信じられない言葉だった。
「秋月さん、もうあの子はうちの子ではありませんので、好きになさってください。こちらに送り届けていただいても、受け取る気はありませんので。それでは。」
「ちょっ、ちょっと!」
それだけ言うと、一方的に電話を切られてしまったのだ。あとは、つーつーというむなしい音だけが脳裏を刺激していた。
「ミキ・・・帰る場所なくなっちゃった・・・。」
美希がそうつぶやいた。
私は力なく受話器を置いた。そしてその場にへたり込むように座り込んだのだ。美希が話し始めた。
「ミキね、今日パパやママと喧嘩しちゃったの。それで気づいたら・・・家を飛び出してた。」
美希の母親の、あの暗くて冷たい声。あの人は、おそらく本気なのだ。本気で、美希のことを「捨てよう」としているのだ。
「律子・・・さん、知ってる?ミキのパパとママは、役所で働いてる公務員なの。お姉ちゃんは、公立の学校の先生。みーんな、まじめさんなの。」