『雨上がりの夜』
聞いたことがあった。美希の口からではなかったと思うが、人づてに、美希の両親が公務員だという話は知っていた。普段のちゃらんぽらんな美希の様子しか知らないから、予想外のことに驚いた記憶がある。
「ミキね、パパとママからずっと言われてたんだ。『大きくなったらパパやママと同じように公務員になりなさい。そうすれば、結婚もできて、子供も産めて、幸せな家庭を築ける。』そう言われてきたの。だけど・・・」
美希の声が震えている。
「だけど、ミキはずっとそんな人生嫌だと思ってた。あんな堅苦しい仕事なんかにつきたくない。ミキはそんなパパたちから逃れたい一心で、アイドルになりたいって思ったの。」
「美希・・・。」
仕切りに遮られ、その表情をうかがい知ることはできないが、きっととてつもなく悲しい顔をしているのだろう。
「当然、パパもママも猛反対だった。お姉ちゃんも。だけど、ミキは必死にお願いしたの。『ミキにアイドルをやらせてほしい』って。その必死なお願いが通じて、何とかアイドルになることを認めさせたの。多分、パパもママも、ミキはすぐにアイドルに飽きるって思ったのかもしれない。ミキは飽きっぽい性格だから、アイドルに飽きて、パパやママが言うように、公務員を目指すことに納得するかもしれない。」
「美希は・・・飽きたから、アイドルを辞めるの・・・?」
美希の強い口調が返ってきた。
「ぜーんぜん、ミキは飽きてないもん。むしろ楽しい。もちろん、レッスンはつらいことも多いよ。苦しいことも多い。だけど、765プロのみんなと出会って、一緒に練習して、一緒にご飯を食べて、一緒にラジオに出て、一緒にバカやって・・・そんな日々が飽きるはずなんてない!だけど・・・」
一瞬、美希の声が潰えた。そのあと、美希はか細くつぶやいた。
「ミキ、怖いの・・・。」
私は恐る恐る尋ねる。
「・・・何が?・・・」
「ミキ・・・だんだん家族から避けられていってる・・・そんな気がするの・・・。」
私は目を見開いて驚いた。
「そんなバカな・・・。」
「ほんとだよ!ミキ、最初のうちは、仕事で帰るのが遅くなっても、パパもママもお姉ちゃんも、夕ご飯を食べないで待っていてくれたのに・・・。だんだん変わっていった。最初はミキのことを待ってくれなくなった。でもそれは、ミキの帰りがもっと遅くなっちゃったから、仕方ないって思ってた。だけど・・・だんだん・・・パパもママも・・・お姉ちゃんも・・・私と話したがらなくなったの。一緒の食卓についても、ミキがパパ・ママ・お姉ちゃんに話しかけても、全然返事をしてくれなくなった・・・。ミキのことなんて、眼中にないみたいだった。それどころか、わざと無視してる。アイドルとしてイキイキすればするほど、家族は私のことを避けていった。ミキ・・・それが怖くて・・・。」
信じられない。それって虐待じゃないか!
「ミキが『竜宮小町』に入りたいって思ったのも、『竜宮小町』に入って、キラキラしたスポットライトを浴びて、活躍できれば、パパたちもミキのことを認めてくれるって思ったからなの。だけど・・・たとえ入れたとしても、それは多分逆効果だったと思うの。ミキは、頑張れば頑張るほど、みんなから嫌われていく・・・。」
私は頭を抱えた。そして美希に尋ねた。
「美希は・・・どうしたいの?これから・・・アイドル・・・続けたいんでしょ。」
美希は、なにも発しない。美希も多分迷っているのだ。自分がどうしたらいいのか。アイドルは続けたい。だけど、今のまま続ければ、美希の中で何かが壊れてしまう。
とはいえ、事務所的には美希が辞めるのはありえない。この子はきっと大成する。それはプロデューサー・社長、そして私の共通見解だった。そして美希はやっと最近、芽が出てきたのだ。『竜宮小町』の人気が出てきたとはいえ、ここで美希を失うのは事務所的に痛い。それに本人もきっと後悔する。
何としても、美希のご両親を説得せねば。
そう思って受話器に手をかけたとき、ここで私はひとつ大事なことを思い出した。
「ねえ美希、このこと、プロデューサーに相談した?」
美希の担当は、プロデューサーだ。私ではない。仮に美希のご両親を説得するとしたら彼になる。美希は、もう彼に相談したのだろうか。
「まだ・・・してない。」
それを聞いて、私は烈火のごとく怒った。
「どうして!?こんな大事なこと!どうしてプロデューサーに知らせてないのよ!?」
美希は何も返さない。
「私に相談する前に、もっと早く事を知らせておくべき人がいるでしょ!?どうしてプロデューサーに知らせないのよ!」
「律子・・・さん。」
「私は美希のプロデューサーじゃないのよ!こんな大事なこと、まず、いの一番にプロデューサーに知らせるべきでしょ。美希、あの人のこと信頼できないの?」
「律子・・・さん。」
「今すぐプロデューサーに電話したほうがいいわね、それから社長にも。」
私は受話器に手を伸ばして、プロデューサーの電話番号にかけようとした。
「律子さん!」
美希の大声で、私は我に返った。
「律子さん・・・どうして・・・、どうして律子さんは・・・私のこと慰めてくれないの?」
美希が途切れそうなか細い声で尋ねてくる。
慰める・・・?私の中で想像しない言葉が出てきて、心の内が動揺している。「慰める」・・・確かに、今の美希を思えば、慰められたかったのかもしれない。だけどそれは、私の役目・・・だったの?美希はそれを・・・望んでいたというの?私に?
「律子・・・さん、何だかアイドルを辞めて、変わっちゃったね。」
「変わった?」
「うん・・・昔の律子・・・さんだったら、こんなとき、真っ先に私のもとに駆け寄って、優しく抱きしめてくれていたと思う。まず最初に、私のことを見てくれていたような気がする。だけど今の律子さんは、765プロのことしか見ていない。私のことなんて、見てくれてないの・・・。」
ドキッとした。核心を突かれたような感じがして、驚いて私は立ち上がり、美希が見える位置に移り、美希を見つめながら、声を荒げた。
「そんなことない!私は・・・美希のことを思って言っているのよ。美希のことをかばってあげられるのはプロデューサーだけ。だから、私はまず最初にプロデューサーに相談してほしかったのよ!」
今までずっとそうしていたのだろう。うつむいていた美希が顔を上げる。そのとき私はたいそう驚いた。
そこには、いつか見た顔があった。ぽろぽろと止まらぬ涙を流し、鼻をすすりながらも、懸命な作り笑みを浮かべている。間違いない。この顔は・・・美希が出演したテレビドラマで見せた、視聴者からも監督さんからも絶賛を受けた、あの演技の時の表情そのままだった。
「美希・・・その顔・・・。」
「律子・・・さん、ミキ・・・、演技うまいでしょ。これも演技・・・なの。律子さんに構ってもらいたくて、泣き真似をしただけなんだよ。」
嘘だ!
私にはわかった。美希は「演技」という仮面をかぶり、心の奥底を隠しているのだ。
痛い沈黙ののちに、美希が言う。
「プロデューサーには、明日話してみるの。ミキ・・・アイドルを辞めるから。」