『雨上がりの夜』
声が震えている。鉄面皮のような美希の泣き笑いの奥底では、悔しくて、悲しくて、心を震わせているのだ。
本当はアイドルを辞めたくない。だけど、辞めなければ、美希は家庭の中で居場所を失ってしまう。私は・・・どうしたらいいの・・・。
この苦悶に満ちた状況に耐えきれず、私はゆっくりと美希のほうへ近寄った。
「美希・・・本当にいいの・・・?本当に・・・後悔しない?」
「・・・・ミキはもう・・・パパともママとも、お姉ちゃんとも、喧嘩したくないの。だから、ミキがアイドルを辞めれば済むことだから・・・。」
「美希、私が保証する。プロデューサーなら・・・あの人なら・・・きっとご両親とお姉さんの気持ちを変えられる。あの人は、それだけのバイタリティーを持った人よ。ねえ、美希。あの人に賭けてみようよ。美希がアイドルを辞めなくていい方法、プロデューサーなら、きっと!」
「嫌なの!」
美希が耳をふさぎ、長椅子の上で体育すわりをして、泣き叫んでいた。
「ミキにとって、パパもママもお姉ちゃんも、大切な家族なんだよ!律子は、わかってない。何もわかってないよ!ミキのこと!ミキが今までどれだけつらい思いをしてきたか、どれほど悲しい思いをしてきたのか!律子なんて、大っ嫌いだ!」
私はその場に立ち尽くした。
大っ嫌い・・・か。嫌われて当然よね。私・・・正直、765プロのことしか、いや、もっと言ってしまえば『竜宮小町』のことしか考えてなかったかもしれない。
美希の言う通りだ。私はアイドルを辞めて、変わってしまった。
そういえば、私がアイドルの時は、もっとみんなのことを気にかけていたような気がする。みんなのよき「お姉さん」として、もっとみんなのことをよく見ていたような気がするのだ。美希だけじゃなく、春香や千早だって・・・。
アイドルを辞めて、『竜宮小町』という素材を与えられ、私は彼女たちを自分の功名の道具としてしか使ってなかったのだ。今まで、13人で一つのチームとしてやってきたのに、私がみんなの間にユニットという壁を作ってしまった。
みんな、何も言わなかったけれど、みんなそういう「壁」を感じていたのかもしれない。いつの間にか、私は「765プロダクション」の一員から外れていたのだ。
美希がさっき私のことを「輝いている」と言っていたときに、言い淀んだ理由、それは私が変わってしまったからだ。もう今の私は、かつて美希が好きだった私では、もうなくなっていた。
今の私は、アイドルたちの気持ちすら読み取れない、ただの冷血女。
そんな私を、美希が嫌うのは当然だ。だけど、私にはやらなくちゃいけないことがある。たとえ嫌われてもいい。恨まれたって良い。私は、美希にアイドルを続けてほしい。
思い出した・・・。私は、美希に惚れていたのだ。その愛らしさに、そしてその才能に。私は少しだけ美希に嫉妬していたのだ。アイドルとして一緒に活動していて、この子にだけは絶対に勝てないと思った。そして、この子だったら、「トップアイドル」になれると感じていた。
誰しもがなれるわけじゃない、一握りの人間にしかなることができない「トップアイドル」、美希は手を伸ばせば、その地位にたどり着けるのだ。私は見て見たい。美希が「トップアイドル」として輝く、その日を。美希という存在に惚れてしまった私のため、美希のファンであるみんなのため、そしてなにより美希自身のために。
私はゆっくりと歩を進めて、美希に覆いかぶさるような形で抱きしめた。耳をふさいでいる両手を取り払う。
「美希・・・ごめん・・・。私、美希の気持ちなんて全然考えてなかった。」
「もう遅いの!ミキはもうこんなところにいたくないの!」
「お願い・・・美希。私のことは嫌いになってもいい。だけど、これだけは聞いてほしい。美希。人生はたった1回しかできない、やり直しが効かないロールプレイングゲームなの。アイドルを辞めるという選択をするのは簡単よ。でも、ここであきらめてしまったら、もう二度と『アイドルになる』という選択肢は選べない。今まで作ってきた美希のファンも、今までのレッスンの成果も、そして765プロの仲間たちも・・・全部失われてしまうのよ。美希は・・・、それでいいの!?たった一度きりの人生なのよ!進みたくもない人生を進んで、一生後ろ髪を引かれる思いをして、それであなた幸せになれるの!?」
「パパママ、お姉ちゃんに嫌われたくない・・・。無視されたくない。軽蔑されたくない。嫌な思いしたくない・・・。」
私は美希の背中をさすった。
「私は・・・美希がそんな顔をしているのを見るのが、一番嫌なのよ。美希は、天真爛漫で、楽天家で、あか抜けているところが、取り柄じゃない・・・。私は。美希のことが好き。ずっと好きだった。今も好きだし、ずっと好き。だから・・・美希と離れ離れになるなんて・・・私・・・。」
本気で耐えられないよ。今でも思い出す。私がアイドルだったとき、二人はバカやって一緒に時間をつぶしてたっけ。美希がびっくり箱を買ってきて、私を驚かせて、心臓が止まりそうになったこともあったし、美希が「私のため」と言って買ってきたシュークリームにからしが入っていたり、ビリビリするガムを握らされたこともあったな。その度に私は怒っていたけど、でも私はそんな美希が愛らしかった。本気で好きだった。
気づけば私は号泣していた。
「律子・・・さん。それは、演技じゃないよね?」
演技なはずあるもんか。私は・・・。
「私は演技が一番苦手なのよ。」
「そうだったの。」
一呼吸おいて、私が尋ねる。
「ねえ美希。」
「何?」
「美希の言う通り、私は、実はずっと引っかかってた。アイドルを辞めたこと。」
「後悔してたんでしょ?」
「後悔っていうか・・・モヤモヤしてたの。私の夢は、プロデューサーになることだったから、『竜宮小町』を与えてくれたのは本当にうれしかった。だけど、アイドルもアイドルで、悪くなかったから。」
「ミキ、別に気休めで言ったんじゃないんだよ。律子・・・さんは、いつか本当にアイドルに戻れる時が来ると思うの。今は『竜宮小町』で忙しいかもしれないけど、彼女たちをトップアイドルにできたら、今度は律子さんの番だと思うの。」
私は苦笑した。
「その時は、もう私はとっくに『おばさん』になってるわよ。」
「大丈夫だと思うの。律子さん、見た目に反して若いから、まだまだチャンスはあると思うの!」
言ってくれるねー、この子。
「誰が老け顔よ、誰が!」
「律子さんなの!それに、律子さんのその眼鏡キャラは、年を重ねたほうが支持を得られると思うの。」
あら、そう?
「ま・・・そういうことなら・・・今はプロデューサー業に励むとしますかな。」
「それがいいの。」
美希はくすくすと笑っていた。私は肝心要なことを聞いた。
「美希は、どうするの?」
「ミキは・・・。」
私は固唾を飲んで美希の返事を待った。
「ミキは・・・やっぱり、アイドルを続けたい。だから・・・少しだけプロデューサーに期待してみようと思うの。プロデューサーなら、私のために一生懸命汗かいてくれそうな気がするし。」
「美希・・・。」