『ともだち』
天海さんが全速力で私に向かって走ってきた。しまった・・・嫌な所を見られてしまった。人が密かに練習しているところを陰で覗き見していたなんて・・・。あまりにもバツが悪すぎる。とりあえず一言謝って、すぐに立ち去ってしまおう。
やがて天海さんが私の目の前で立ち止まった。
「ずっと、聞いていたんですか?」
私は目を臥せて答える。
「ごめんなさい。盗み聞きするつもりはなかったんです。たまたま河川敷を通ったら、天海さんの姿を見つけたから、どんなものかと・・・。」
半分以上嘘だ。というか、全部嘘だ。
「・・・失礼します。」
私は彼女から逃げるようにして去ろうとした。そんな私を彼女は引き留めた。
「待って!せっかくだから、お話していきましょうよ!」
天海さんの「ひみつ」を覗き見してしまった手前、彼女の誘いをむげに断る訳にはいかない。
「・・・分かりました。でも、私も時間がないので、少しだけですよ。」
彼女の顔が明るく咲いた。
「いいですよ。じゃあ、あそこに座りましょうか。」
そう言って彼女は、少し離れたところにあるベンチを指さした。私たちは、そこに向かって歩き出す。私の方から声をかけてみることにした。
「こんなところで練習していたんですね。」
「自宅だとお父さんとお母さんに迷惑をかけるし、家の近くに発声練習できるところもないですから。」
「ちゃんと、私たちが言ったとおりに練習しているんですね。」
天海さんは笑顔になる。屈託のない笑顔だ。
「ええ。せっかくプロが教えてくださるんですもの。もっと歌が上手になって、たくさんの人に聞いてもらいたいですから。あっ、あと私、ランニングも始めたんです。」
「ランニング・・・。」
ランニングは私が勧めたものだ。歌手にとって大事なのは肺活量と持続力だ。将来、ライブやレコーディングを行うという事を考えると、数時間歌いっぱなしに耐えられるだけの体力をつけておかなければならない。だから、ランニングは、絶好のトレーニングになる。
「朝のランニングって気持ちいいですね。走っているうちに、だんだん陽が昇っていって。それで最近、近所のおじさんとランニングしているときによく出くわすんですよ。それで、その人と仲良くなって、あっ、この間はジュースをおごってもらったっけ。」
そうつぶやく天海さんの表情は本当に華やいでいる。
そう言っている間に、ベンチのところにたどり着き、私たちは腰を下ろした。私は天海さんの方を向いて尋ねてみた。
「朝、辛くないんですか。遠いんでしょ。ここまで。」
天海さんは笑顔で答える。
「始発駅から電車に乗れるんですよ。だから、電車の中で座って寝てるんです。」
「そう・・・ですか。」
とはいえ、ランニングもしてこちらに向かうとなると、朝は5時起きぐらいになってしまうはずだ。今だって、こんなに練習していたら、家に帰る時間がなくなってしまう。
「毎日、練習しているんですか?」
「毎日じゃないですけど、3日に1回くらい、ここで発声のトレーニングを1時間くらいやってから家に帰るんです。ボイトレって面白いっですね。やればやるほど、新しい発見がある。だから、それをつい試したくなっちゃうんです。」
天海さんの顔は本当に生き生きとしている。そんな彼女に、私はついに尋ねてみた。
「天海さん、一つ聞いていいですか。」
「何でしょうか。」
改まって尋ねるものだから、天海さんが少し顔をこわばらせた。
「天海さんって・・・どうしてあんなに楽しそうに歌を歌えるんですか。」
それを聞いて、天海さんは不思議とキョトンとした顔をした。どうしてそんな質問をするの?という表情だった。そして、彼女から帰ってきた答えは実にシンプルだった。
「だって・・・楽しいじゃないですか、歌うの・・・。あれ?楽しく・・・ないんですか?」
天海さんは恐る恐る尋ねてきた。私は彼女から目をそらした。
歌うのが楽しい、そんな感覚はとっくの昔に忘れ去ってしまっていた。
「天海さん、最近歌が上達してきたから、だからそれが嬉しいのかと・・・。」
「確かに、歌が上手くなってきたのは嬉しいんですけど、それ以前に、私、歌うのが大好きですから。」
じゃあ、あれは?あれも演技じゃないっていうの?
「天海さん、ずっと笑顔でしたよね。誰もいない河川敷に向かって。」
「そこも見ていたんですね。」
ちょっと通りかかっただけという嘘が、もう露呈している。だけどそんなことお構いなしだった。
「楽しいんですか?誰もいない河川敷に向かって歌うこと。だからずっと笑顔だっていうんですか?」
天海さんはしばらくの静寂の後に「はい」とだけ答えた。
天海さんも正面を向いて、黙り込んでいる。私も正面の川面に目を向けた。眼前には、西日に照らされた川面が輝いていた。
少し経ち、重い沈黙を破って、天海さんがこちらを向いて尋ねてきた。
「如月さんって、カラオケに行きますか?」
私も彼女を見返す。
「カラオケですか?ええ、まあ行きますけど。」
「カラオケって楽しいですよねー。友達と馬鹿みたいにはしゃいで、好きな歌歌って、合いの手入れて、タンバリンを打ち鳴らして。友達とワイワイやっているときは本当に楽しい。だけど、私一人カラオケも好きなんです。歌っていると、なんだか気分がウキウキしてくる。たとえ誰も聞いていなくても、声を出すって楽しい。何かから解放されたみたいに気分がさわやかになるんです。」
気分がさわやかに・・・ね。遠い昔、私もそんな気分になっていたんだっけ。長らくそんな気分になったことはなかったから、それがどんな感覚なのか、いまいちピンとこなかった。
「如月さんは、カラオケは友達と行くんですか?」
私にそんな「トモダチ」はいない。
「いいえ。一人です。カラオケは声のセルフチェックにちょうどいいんですよ。最近は採点機能も充実していますから、歌い方の癖とか、ビブラートの出し方とか、そういうのを研究するのに向いているんです。」
「そうですか・・・。」
天海さんは何かを言いたげだった。ただ、なんて切り出していいのかわからないという感じだった。天海さんは私のほうを見やることなく、まっすぐ川べりを眺めている。私も川の方に目を向けていた。
しばらく無言が続いていたが、天海さんが意を決した様子で私に尋ねてきた。
「如月さん、ちょっと失礼なこと聞いちゃいますけど、ごめんなさいね。」
彼女はそう前置きしたうえで尋ねてくる。
「如月さんって、なんか歌っているとき、すごく『苦しそう』なんです。如月さん・・・歌うの・・・歌うことが・・・『苦しい』んですか?」
歌うことが苦しいか?それは苦しい。本気で歌えば歌うほど。でも、それはプロとして当然のこと。
「・・・苦しいですよ。少なくとも楽じゃない。でもそれは、少しでも聴者にいい歌を届けようと必死だからですよ。当たり前のことじゃないですか。歌は自分のために歌うんじゃない、少なくともプロは。私の歌を聴いてくれる人のために歌うんです。だから、私自身が苦しいのは当然ですよ。」
天海さんが食らいついてくる。
「一緒に楽しくなっちゃダメなんでしょうか。」
「えっ?」