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マトリョーシカ

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 ユリアの言葉を聞くうちに、ザイコフの顔から次第に笑みが消えていった。探るような目つきでユリアの顔を注意深く観察しながら、持っていたカップをゆっくりとテーブルに戻す。
「でも…」飾り棚の方に顔を向け、人形を目線で示しながらユリアは言った。
「これだけは本物です。これ以上は何も隠していない。小さくてみすぼらしいけれど、ちゃんと中身が詰まっている。すべての嘘があばかれた後、最後に残る真実です」
 一気にしゃべり終えて再びザイコフの方を向き直ったユリアは、そこで初めて彼の視線に気づいたように口を閉ざし、じっと彼の目を見返した。それからすぐにまた目線を落とすと、両手でカップを包み込むように持ち上げて冷めかけた紅茶をひとくち飲んだ。
「すみません。つまらない話を…」
「…いや。なかなか興味深い解釈だ」
 ユリアの顔を凝視したままザイコフは言った。
「私個人の、ひねくれた解釈です。忘れてください」
 テーブルの上のどこか一点を見つめながらそう言うと、ユリアはそれきり黙り込んでしまった。


 ユリアに礼を言って彼女の部屋を出たザイコフは、再び冷たい夜気の中を歩きながら考えていた。彼女はいったい何の話をしていたのだ? 単純にマトリョーシカが嫌いだというだけの話か。あるいは石像のような無表情の下に押し込められたユリア自身の自我を例えていたのか。
 それはあり得る、とザイコフは思った。先刻のユリアの美しい微笑が鮮やかに脳裏によみがえる。無表情の鎧の下の傷つきやすい自我。それに対する理解を求めていたのかも知れない。あるいは自分で自分を解放できないもどかしさを伝えたかったのかも知れない。
 …それで納得しようと思った。それ以上のことを考えるのは止めにしようと思った。だが、どうしてももうひとつの可能性が頭から離れない。
 ひょっとして、彼女は知っているのではなかろうか? 大学教授という肩書きに隠れたスパイのことを。そして、外交官という虚像に隠れたKGB駐在官のことを…。だとしたら、いつそれを知ったのか。どうしてそれに気がついたのか。何のために知らないふりを続けているのか。

 ザイコフの中で、ユリアに対する興味と疑惑が交互に点滅を繰り返していた。



 翌朝、ザイコフはかなり早めに自宅を出ると、すぐに大使館へは向かわずに、西駅近くの『ルスケ』に入り、ハンガリー人たちに混じって立ったままの朝食を取った。この店の本業は肉屋なのだが、店の片隅にはパンとエスプレッソメーカーが置かれ、通りに面した窓ぎわにカウンターが設けてあって、できたてのハムやソーセージをその場で客に食べさせる商売をやっていた。朝早く開いているので、毎朝ここで朝食をとることにしているハンガリー人もいる。
 だがザイコフの目的は、朝食よりもむしろ「壊れていない公衆電話」にあった。もちろん大使館の官舎にも電話はあるのだが、当然のように通話記録が取られ、会話の内容も録音されている。普段なら聞かれても何ひとつ後ろめたいことなどないザイコフだが、今日は少しばかりワケが違った。
 戦後、MGBの時代から、ソ連は東欧諸国の秘密警察に影響力を浸透させてきた。そのおかげで、ポーランドやチェコスロバキア、ハンガリーの秘密警察は、今や自分の国の政府よりもモスクワに対して忠誠をささげており、各国の警察内部には大使館内の情報室とは別に、KGB要員が駐在するのが通例になっていた。大使館内のKGBがその国の政府に監視の目を光らせる一方で、警察内部のKGBは人民の中にひそむ反革命活動家に目を光らせているのだ。両者はそれぞれモスクワから直接の命令を受け、独立して活動するため、同国内にあっても横の繋がりがないのが普通だ。
 ここハンガリーの秘密警察である内務省公安局にも、そうした駐在要員がいる。そして、その中のひとりにザイコフの昔なじみの男がいた。そしてザイコフは今、その男に連絡を取ろうとしていたのだった。それも、少々権限を逸脱した頼みごとをするつもりで。
 2回の呼び出し音についで不機嫌そうな男の声が聞こえた。ザイコフはいきなりマジャール語で軽快にしゃべり出した。
「なんだミハーイ、まだ家にいたのか。こっちはもう『ルスケ』にいるんだぞ。早く来い」
 大使館の官舎と同様、相手の電話もどこかで記録されている可能性は高いから、はっきりと名乗るわけにはいかない。ザイコフは、相手の男のカンの良さに賭けた。
「…残念だが……」
 考えているらしい短い沈黙の後、受話器の向こうの男はニヤリと笑って言った。もちろん顔は見えないが、そういう声の調子だった。面と向かい合っても何を考えているのか分からない女もいれば、声だけで表情まで分かってしまう男もいるのだ。
「番号を間違えているようだ」
 ここまでは下手くそなマジャール語だったが、最後はロシア語に切り替わった。
「こっちはいい迷惑だ。ちゃんとした番号が分からないなら、諦めておとなしく友だちを待ってろ!」
 男はそう言うと、ザイコフに何か言い返すヒマも与えずに電話を切った。いい迷惑だと言うわりには、最初に電話口に出たときほど機嫌は悪くなさそうだった。どうやら話は通じたらしい。ザイコフは受話器を置くと、カウンターに戻って朝食をすませ、エスプレッソを飲みながら『友だち』が現れるのを待った。

 15分ほど待っただろうか。いきなりすごい力で背中を叩かれて、ザイコフは思わず咳き込んだ。後ろを振り向くと、いかにも腕に覚えがありそうな肩幅の広い男がニヤニヤしながら立っていた。ザイコフも体格には恵まれている方だが、この男は6年前のオリンピックで金メダルに輝いた元・拳闘選手だ。その腕で思いきり背中を叩かれたのでは、たまったものではない。もっとも、この男が本気を出したらこんなものではないだろうが。
「ひどいな」とザイコフは呻いた。
「もう少し手加減してくれてもよさそうなものだ」
「驚いたか。朝っぱらからワケの分からん電話で呼び出してくれたお礼だ」
「ああ、すまなかった。だが、君が機転のきく男で助かったよ」
 ミーシャは満面に子供のような笑みを浮かべながら、がっしりとした筋肉質の腕をザイコフの肩にまわした。
「久しぶりだなサーシャ。いや、今は同志『白クマ』と呼ぶべきなのかな」
「どちらでもいいさ。本当に久しぶりだ」
 ザイコフも親しみをこめてミーシャの肩を叩いた。だが、のんびり再開を喜んでいる時間はない。
「ところで君、食事をするか?」
「いや、おれはいい。それより用件は何だ」
 時間がないのはミーシャも同じらしかった。
「ではここを出よう。歩きながら話す」
 二人は連れ立って店を出ると、10月6日通りをゆっくりと歩き出した。

「君がこちらに赴任してきたのは、9月だろう?」
 歩き始めるとすぐに、ミーシャが話の口火を切った。
「それなのに何の連絡もよこさないと思っていたら、こんなに急に、しかもあんな回りくどい電話をかけてきて…。いったい何事だ?」
「ちょっと個人的に頼みたいことがあるんだ」
「着任早々、上に聞かれるとマズイ話か? まさか君、妙な連中に関わってはいないだろうな」
 ミーシャはそう言って、ザイコフの顔を横目でじろりと睨んだ。ザイコフは黙って首を横に振った。
作品名:マトリョーシカ 作家名:Angie