マトリョーシカ
それは、この地区にしては比較的まともな建物だった。古ぼけているが造りは頑丈だったらしく、全体としては傷みは少ないようだった。壁も、ところどころに第二次大戦の弾痕が残ってはいるが、他の建物のように崩れ落ちてしまっている所はなかった。アーチ型の通路をくぐると吹き抜けの中庭になっており、そこから各階へ上る階段がついている。パウラッチェンと呼ばれる建築様式で、ブダペストとウィーンに共通する建て方だ。こんなところにも往年の大帝国が形を留めている。
ザイコフは正方形の中庭をざっと見渡したが、特に怪し気な人影は見あたらなかった。これならドアの前までついて行く必要はないだろう。
「では、私はここで失礼するよ。おやすみ」
そう言って踵を返し、中庭から道路の方へ戻ろうとしたザイコフを、ユリアの声が呼び止めた。
「ガスパディーン」
ザイコフは足をとめて振り返った。
「熱いお茶をお入れしますから、お寄りください」
抑揚のない事務的な口調でユリアはそう言った。今度はザイコフの方が、まじまじと彼女の顔を眺める番だった。時計の針は午前零時を回っている。こんな時間に一人暮らしの若い女性が男を部屋に招き入れるなど、普通なら言外の意味を考えてしまうところだ。だがユリアは、そんな事にはまるで気づきもしないように、何のてらいもなく言葉をついだ。
「少し体を温めて行かれた方が…。もちろん、お急ぎでなければですが」
たぶん本人には言葉以上の意図はないのだろうが、なんとも不用心な申し出だ。
「気遣いはありがたいが、…君はどうも不用心すぎるね」
ザイコフがそう言うと、ユリアは不思議そうに首を傾けて言った。
「そういう点では、あなたは信用してよさそうに見えますが」
やれやれ、ちゃんと分かっているんじゃないか。
逆にクギを刺された形になって、ザイコフは思わず苦笑しかけたが、次の瞬間にはユリアの顔に起こった変化に驚きの目をみはった。口角の両端がほんの少しだけ上向きに広がり、目尻がかすかに弛んだ。たったそれだけのことで、無機質な石の彫像のようだった顔が、生きた人間の顔になった。まるで奇跡のように…。
ユリアが初めて見せた笑顔は、本当に息を飲むほど美しかった。ザイコフは我を忘れて見とれてしまった。おそろしく整った顔立ちだとは思っていたが、美しいと思ったのはこの時が初めてだった。霧の向こうに光が滲むようにうっすらと浮かび上がったその微笑は、ザイコフの目の前でしばらく蜃気楼のように漂っていたが、やがて霧散するように消えてしまった。
「どうぞ、こちらです」
あっけに取られたザイコフが是とも否とも言葉を見つけられずにいるうちに、ユリアはさっさと階段に向かって歩き始めていた。どうしたものかと少し迷った挙げ句、ザイコフは結局、ユリアの言葉に従うことにした。もう一度、今の微笑を見ることができるかも知れない。ぜひ見たいと思った。
ユリアの部屋は3階の東向きの一室だった。キッチンと居間と、寝室がひとつあるだけの、ごく簡素な住まいだった。
「狭いおかげで、すぐに暖まります」
ユリアはストーブに火を入れながらそう言うと、ザイコフに椅子を勧めた。
「適当にお掛けになってください。今、お茶の用意を」
確かに狭い部屋だった。ひとり掛けのソファふたつと小さなティーテーブルだけで居間が一杯になってしまっている。片方のソファの上には本が何冊か積み上げられていたので、ザイコフは空いている方に腰をおろし、それからざっと室内を観察した。建物の薄汚れた外観に比べ、内部は意外なほど清潔で、狭いなりに居心地良く整えられていた。余分な装飾品などは一切なく、女性の住まいにしては素っ気ないが、それがかえってユリアらしくはあった。
ザイコフは最後に窓際の壁に造り付けられている飾り棚に目をやった。彼女はもっぱら書棚として利用していると見え、そこにもびっしりと本が並べられていたが、ふと、それらの背表紙の前に豆粒ほどの大きさの、特徴的な形をした人形がぽつんと置いてあるのに気がついた。マトリョーシカだった。
それにしても、やけに小さい。ザイコフは立ち上がると、飾り棚のそばまで行って人形を手にとってみた。小さい理由はすぐに分かった。その胴には切れ目がなく、それ以上は小さくならない。入れ子の最後の一体だった。これの外側はどうしたのだろう。普通ならこういう飾り方はしない。一番外側の大きな人形の中に全部を納めておくか、中身を順番に並べておくものだが…。改めて室内を見回してみても、外側の大きな人形は見あたらなかった。
やがてティーポットとカップをのせた盆を持って、ユリアが戻ってきた。
「どうかなさいましたか?」
ユリアは盆をテーブルの上にのせると、ソファの上に積み上げてあった本を床におろしながら尋ねた。
「このマトリョーシカはどうしたのかと思ってね」
「昨年の夏ごろ、あなたの前任者だったイェレンコ三等書記官にいただいたものです」
ユリアがカップに紅茶を注ぐのを見て、ザイコフは人形を棚に返してソファに戻った。
「もらったって、まさかあのひとつだけを?」
「いいえ、5個が組みになっていたのですが…」
「他の4つは飾らないのかい?」
熱い紅茶をすすりながら、ザイコフは尋ねた。
「どうしてまた、あれだけを? 5個の中でもいちばん小さくてさえない人形だろうに。どうせ飾るなら、外側の大きな人形の方が彩色も凝っていて見栄えがするんじゃないか?」
「…外側の4つは、捨ててしまいました」
「捨てた?」
ザイコフは驚いて聞き返した。
「イェレンコ書記官には申し訳ないと思ったのですが…」
ユリアはそう付け足したが、実際のところ、あまり申し訳なく思っているようには見えなかった。もっとも、ザイコフにとってはどうでもいいことではある。
ユリアは手の中のカップを見つめながら言葉を続けた。
「どうしても好きになれなかったもので」
「外側の4つが?」
「いいえ。人形が入れ子になっているということがです」
「…君はなかなかユニークだな」
ザイコフは笑った。
「そういう意見を聞いたのは初めてだ。そもそもマトリョーシカというのは、ひとつの人形から次々に違う人形が出てくるのが面白みだと思っていたが」
するとユリアは顔をあげ、まっすぐにザイコフの顔を見た。
「面白いですか?」
静かな口調だったが、なんだか咎めるみたいな響きがあった。
「私は好きになれません。まるで…」
そこでユリアは言いよどみ、再びカップに目を落とした。
「…まるで?」
ザイコフは促した。ユリアはなおしばらく言いよどんでいたが、やがて決心したように(あるいは諦めたように)静かに言葉を続けた。
「まるで、幾重にも嘘を重ねているみたいに思えます」
その一言を口に出してしまったことで、何かのタガがはずれたのだろうか。ユリアは急に饒舌になった。
「華やかで見栄えのいい人形は、実体のない虚像です。中を開けるとまた別の顔をした人形が現れる。その繰り返しです。虚像の上に虚像を重ねて、巧妙に正体を隠しているんです」