マトリョーシカ
「…誰かが、船でやってくるはずだったんじゃないのか?」
ヴィガドー広場といえば、ドナウ川を往来する近郊連絡船の船着き場の前だ。それに参事官の調査書類を信用するならば、ユリアはセンテンドレの出身とあった。連絡船で2時間足らずの街だ。
「まあ、そんな所だろうな」
ミーシャも同意を示した。
「だがいずれにしろ、これはプロの行動じゃない。プロなら1ケ所で2時間も待つような真似はしないし、2度目の接触を試みるなら別の場所と時間を選ぶだろう。目的不明なのが気に入らんが、この件については我々が注目するだけの意味があるかどうかは疑問だ。それよりも…」
ミーシャは声を低くした。
「問題は一昨夜の外出だ」
一昨日、ユリアはいつもより早く大学を出ると、午後8時40分には自宅に戻った。監視を始めて以来、彼女はいったん自宅に入ると朝の出勤時間まで外出することがなかったので、監視員はすっかり今日の仕事は終ったつもりになっていた。だから、午後11時近くに背の高い人影がアパートから出てきた時、まさかそれがユリアとは思わず、顔の確認をしないまま見過ごしてしまった。というのも、この時の彼女は、あの目立つ銀色の髪を黒い帽子の中にすっぽりと隠した上、眼鏡までかけていた。特徴のありすぎる人物というのは、その特徴を隠してしまうと、かえって判別しにくくなるものだ。明らかに人目を避けた外出、とミーシャは評した。ちょうど監視の交替時間で、アパート方面に向かっていた要員が路上でユリアとすれ違い、彼女を至近距離で確認できたのは、本当に偶然の幸いだった。
彼はとっさに尾行を開始し、ユリアが環状大通りを北に向かって進み、オクトゴンを渡り切った所で左に折れて、すぐそばのホテル『メドゥーズ』に入るのを確認した。そのまま出入り口を見張っていたところ、彼女は約3時間後にひとりで出てきて、まっすぐに自宅へ戻っていったという。
腕組みしたまま考え込むようにして聞いていたザイコフは、そこでひとつ質問をはさんだ。
「彼女と前後してホテルに出入りした者は?」
「ひとりいる」
「で、その人物の素性は…」
「誰だと思う?」
ザイコフの問いを遮るようにして、ミーシャは逆に聞き返してきた。
「君のよく知っている男だ」
ザイコフはちょっと考えるように宙に目を泳がせたが、その答えに行き当たるのに2秒とかからなかった。はっと顔をあげてミーシャを見ると、ミーシャはゆっくりと頷いて「当たり」と言った。
「そうか…」ザイコフは呻いた。「だから再調査は必要ないというわけか…!」
「まあ、そういうことだな」と、ミーシャは間延びした声で答えた。
「とにかく、思いがけない所にぶつかって、ハンガリー当局はあわてて手を引っ込めた。さわらぬ神に祟りなしってわけだ。これ以上の調査はおれの方では無理だな。だがこれで君が彼女に感じた違和感の正体はハッキリしただろう。あの女は反革命分子ではないが、関わらないに越したことはない」
「ああ…」
あいまいな返事をしながら、ザイコフは鉛を飲み込んだような気分になっていた。一昨夜、参事官が頭痛を理由にルーマニア大使館のパーティを途中で辞去した事を思い出した。ユリアが参事官のエージェントなら、教授や自分の正体を知っていても不思議はない。それにしても参事官はユリアに何をさせているのか。教授を監視させている可能性は考えられる。あるいはザイコフ自身も監視の対象になっているかも知れない。だがそんな報告を受けるために、わざわざ参事官本人が他人に目撃されるリスクを冒してまで出向いて来るものだろうか? なぜ『郵便箱』を利用しないのか……。
…ベリヤの悪しき習慣。考えたくはないが、その可能性は否定できない。ユリアはエージェントですらないかも知れない。そう思ったとたん、腹の底にずっしりとこたえる鈍い衝撃があった。
黙り込んでいるザイコフの横顔を、ミーシャはしばらく眺めていたが、やがてその大きな手でザイコフの肩をがっしりとつかんで、明らかに意識的な陽気さで言った。
「ところで、近いうちにお互い時間を作って、もっとゆっくり会わないか。何年ぶりかで顔を合わせたんだ。酒でも飲みながら積もる話をしようぜ」
その手と声に、ようやく我に引き戻されてザイコフは顔をあげた。
「そうだな。時間ができたら連絡するよ」
「今度は間違い電話をするなよ」
そう言ってミーシャはいたずらっぽく笑って見せた。こういう笑い方をすると、ミーシャは本当に子供のような顔になる。かつてのワンパク小僧そのままの笑顔につられて、ザイコフも微笑を返した。
二人は連れ立って店を出ると、そのままそこで別れた。10月6日通りをのしのしと歩き去るミーシャの姿をしばし見送ってから、ザイコフは環状大通りを南に向かって歩き始めた。オクトゴンまで来た時、右手に『メドゥーズ』の白い建物が目に入った。今の段階で確かなことは、一昨夜ここにユリアと参事官がほぼ同時刻に現れたということだけだ。それ以外は推測にすぎない、とザイコフは自分に言い聞かせた。両者が接触したことが確認できないうちは、参事官と顔を合わせても素知らぬ風を装うことだ。
だが、もし事実が確認できたとして、その後どうしたいのかは自分でも分からなかった。それに、どうやって確認しようというのか…。
とりあえず、ユリアにあたってみるしかなかった。例の船着き場通いに何か関係があるかも知れない。3週続けて彼女が現れるかどうかは分からないが、まずは次の日曜日の午後4時にヴィガドー広場へ行ってみることにしよう。
そこまで考えたところで、ザイコフはミーシャに骨折りの礼を言うのを忘れたことに気がついた。
1865年に建てられたコンサート・ホール「ヴィガドー」は、第二次大戦中ナチス・ドイツによって破壊された後、未だに再建のメドがたっておらず、現在では劇場前の広場だけにその名を留めている。
ドナウ川に面したその広場の片隅にルカーチ・ユリアが姿を見せたのは、午後4時5分すぎだった。
日没とともに急激に下がり始めた気温はすでに零度を下回っていたが、モスクワの厳冬に慣れた者には苦になるほどの寒さでもない。むしろ刻一刻と濃くなっていく夕闇が、ザイコフにとってはありがたかった。身を隠した植え込みからユリアのいるベンチまでの距離は十数メートルしかなかったが、ふいにユリアがこちらを振り向いても、この暗さではすぐに気づかれる心配はなさそうだ。ユリアの姿を目の端で捕らえながら、ザイコフは注意深く周囲を見回した。自分以外に彼女の様子を伺っているらしい人影は見あたらない。確かにミーシャの言った通り、ハンガリー当局はユリアの監視から手を引いたようだった。
やがて黒々とした川面を小形の定期船が近づいてくるのが見えると、船着き場はにわかに活気づいた。
午後4時15分。船は広場の正面に着岸し、センテンドレからの乗客が次々と河岸に降りてきては、それぞれの目的地に向かって右へ左へと散って行く。それらの人々を、ユリアは相変わらず身動きもせずに眺めている。この船にもやはり、待ち人は乗っていなかったらしい。