マトリョーシカ
次の船が到着するのは午後6時ちょうど。そしてそれが最終便だ。先週、先々週とユリアがここで2時間も過ごしていたのは、おそらく最終便の乗客を確認するためと考えて間違いない。そして今日もたぶん午後6時まで待ちつづけるのだろう。何が目的か知らないが、根気強いことだ。ザイコフはいささか閉口しながら、ちらりと時計に目を走らせた。
その時だった。
それまで身じろぎもしなかったユリアが突然はじかれたように立ち上がったかと思うと、くるりと河岸に背を向け、足早に立ち去ろうとしたのだ。折しも船着き場の方からは、最後に船から降り立った乗客のひとりが、広場に足を踏み入れたところだった。暗くて顔まではっきりとは分からないが、労働者風の身なりをした小柄な中年男のようだ。男は立ち去ろうとするユリアを見ると、カン高い声をあげ、明らかにユリアの後を追って走り出した。だがユリアの方は見向きもせず、それどころかまるで逃げ去るように、広場の反対側へ出ていこうとしていた。
ザイコフは状況の解釈に困惑した。男の方はどうやらユリアに会うために先ほどの船でやって来たようだが、それではユリアが待っていたのは彼ではなかったのか? この寒空に、あれほど根気強く待ちながら、なぜ相手が現れた途端に逃げ出すのか?
状況が飲み込めぬままに眺めていると、広場を出たところで小男はユリアに追いつき、自分よりも背の高い女の腕をつかんで引き戻した。何か言い争うような短いやりとりが聞こえたが、すぐにユリアが男の手を振りほどき、さっと身を翻して再び早足で歩き始めた。それでも男はあきらめず、しぶとく後をついて行く。ザイコフはとりあえず尾行することに決め、二人の姿がデアーク・フェレンツ通りへ入ってゆくのを見届けてから、そろりと植え込みの陰を離れた。
背後から追いかけてくる男の声をひたすら無視して、ユリアは黙々と歩き続けた。いっそ走って逃げようかと思ったが、まともに相手にしていると思われては口惜しかった。それに、走ったところで、どこかで上手くまかなければ執拗に追ってくるに違いない。ヨージェフ地区のゴロツキどもより始末が悪い。
スカートの裾が足に絡み付いてつんのめりそうになりながら、可能な限りの早さで足を運ぶユリアの背中に向かって、男は何度となく声をかけてきた。
「なあおい、逃げるこたぁねぇだろう? へ…へへ、久しぶりに会ったってのによお」
媚びるような猫撫で声に品のよくない笑い声が混じる。この声を聞くとぞっとする。耳を塞ぎたい思いだった。よもやこの男がやって来るとは。しかも、ぬけぬけと手を差し出して見せるとは…! 全身の血が逆流しそうな怒りと嫌悪感が、ユリアをますます固く冷たい無表情にしていた。
賑やかなヴァーツィ通りを横切って、人通りの少ない場所にさし掛かったとたん、男は態度を豹変させた。猫撫で声で話しかけるのを止め、いきなりユリアの腕をつかんで人気のない裏通りへ引きずり込むと声を荒げて「待てと言ってるのが聞こえねぇのか、このアマ!」と罵った。
ユリアは再び腕を振りほどこうとしたが、今度は男の方も簡単には手を離さなかった。ものすごい握力で腕を締め上げられる痛みに顔をしかめながら、ユリアは仕方なく口を開いた。
「あなたと話すことなどありません」
「そうかい。じゃあ話なんかしなくていいから黙って金だけよこしな。持ってるんだろ? 医者に払う金」
「これは直接コンラード先生にお渡しすることになっています」
「だけど、その医者が来ねぇんだから仕方ないだろ?」
「まさかあなた、先生をどうかしたんですか?」
男の顔にカッと血が上った。
「冗談じゃねぇ! 人聞きの悪いことを言うな! 今月は都合がつかねぇから、代わりにお前から金を受け取って来て欲しいと、ヤツの方からおれに頼んできたんだ」
「そんなはずはありません。あなたに渡したりしたら、先生にお支払いする前に自分で使ってしまう。いくらお忙しくても、コンラード先生があなたに代理を頼むはずは……!」
ユリアが全部言い終らないうちに、男はいきなり拳を振り上げた。ユリアはとっさに身を引いて逃れようとしたが、一瞬の差で間に合わなかった。こめかみのあたりをしたたかに殴られてかがみ込んだユリアを見下ろしながら、男はヒステリックにわめいた。
「ああそうともよ! おれが使うさ! 実際、もう医者に金を払う必要もなくなったしな!」
その言葉に、ユリアはハッとしたように顔を上げ、凍り付いたような目つきで男を凝視した。
「ふん!」と小男は鼻を鳴らすと、吐きすてるように言った。
「てめぇの母親…、あの死に損ないのラウラが、やっとくたばったのさ!」
「ばかな…。先月には、容体は安定していて当分は大丈夫だろうと先生が…」
「そりゃ先月の話だろ? 2週間前に急に悪くなったのさ。信じられねぇならこれを見な! お前の信頼する大先生のサイン入りだぜ」
言いながら男はポケットから折りたたんだ紙切れを取り出し、ユリアに投げつけた。開いてみると死亡診断書だった。死亡の日付けは先週の土曜日。確かにコンラード・ミクローシュ医師のサインが入っている。医師が約束の日に現れなかったのは、ラウラの世話や死後の処理で忙しかったせいだろう。
ユリアが黙って診断書を折りたたむのを見ると、小男は勝ち誇ったように言った。
「それで納得がいったろう。言っておくが、おれたちに居所を隠していたのはお前の方だからな! すぐにお前に知らせようにも連絡の取りようがねぇから、医者にお前に会う方法を聞いて、わざわざここまで来てやったんだ!」
「…それはどうも…。知らせて下さって感謝します」
やっと聞きとれるぐらいの低い声でそう言うと、ユリアは立ち上がって男に一礼し、さっさと踵を返した。
「おっと、待てよ!」男はあわててユリアを引き戻した。
「だからよ、お前が持ってる治療代は、もう支払う先がねぇのさ。どうせ自分じゃ使うつもりのなかった金だろう? だったらおれによこしな。知らせてやった駄賃だ。な?」
「知らせてやった?」
怒りを押さえた静かな声でユリアは言った。
「最初は母が死んだことなど一言も口にしなかったではありませんか。私には事実を知らせずに、先生の代理だとかうまいことを言って、これから毎月、私からお金を取り上げる魂胆だったのでしょう?」
「そ、そりゃあお前、ちょっと魔がさしただけじゃねえか」
「船賃ぐらいは差し上げましょう。でも残りは、あなたに渡すぐらいなら燃やした方がましです」
ユリアがきっぱり言い切ると、男の顔はみるみる真っ赤になった。
「なんだとこのアマ! ふざけやがって! もういっぺん…」
言いながら男は、ユリアの髪をひっつかんで振り回し、再び拳を振り上げた。その時だった。
「何をしている。やめたまえ!」という鋭い声が響いた。
拳を振り上げたまま、男はぎょっとしたように後ろを振り返った。デアーク・フェレンツ通りの角から背の高いロシア人がこちらに近づいてくる。顔を見ればまだ若いようだが、妙に落ち着き払った歩き方や相手を威圧するような鋭い目つきには、年齢不祥の迫力があった。
「何だあんたは? 余計な口を出すな!」と吠えながらも、男は思わず後ずさりした。