マトリョーシカ
「私も口を出したくはなかったが…」
小男とユリアとの間にゆっくりと割って入ると、ザイコフは穏やかに言った。
「いい年をした男が公道の真ん中で女性相手に手をあげる図というのは、やはりどうにも見苦しくてね」
「余計なお世話だ!」と小男はわめき、続いて意外な言葉が飛び出してきた。
「父親が、言うことを聞かねぇ娘を殴って何が悪い!」
「父親…?」
さすがにこれにはザイコフの方が面喰らった。この小男がユリアの父親…? ザイコフは改めて小男をまじまじと眺めた。すらりと長身のユリアに比べ、この男はマジャール人の中でもかなり小柄な方だ。それに、整いすぎるほど整ったユリアの顔立ちとは似ても似つかない凡庸な顔立ち。この二人が親子だなどとは思いもよらなかった。
予期せぬ言葉にザイコフが即座に反応できずにいると、小男はがぜん勢いづいた。先ほど少し後ずさりした分を取り戻すかのように大きく一歩を踏み出し、押し殺したような声で
「事情も知らずに他人の話にくちばしを突っ込むもんじゃねぇなぁ、兄さんよ」
と言って、にたりと笑った。彼なりに精一杯、凄みを効かせたつもりなのだろうが、ザイコフは危うく吹き出しそうになった。
「分かったら、とっとと失せな! さもないと…」
すっかり優位に立った気になったのか、小男はそう怒鳴ると、手を伸ばしてザイコフにつかみかかってきた。まともに相手をするつもりはなかったので、ザイコフはちょっと上体をひねって軽く身をかわした。と、その時。ザイコフの肩ごしに、いきなり小男の顔めがけて紙の束が投げつけられた。ぱっと宙に舞った紙をよく見ると、なんと全部50フォリント紙幣だった。驚いて振り向くと、ユリアが凍りつくような冷たい視線で小男を見つめている。その目には明らかに軽蔑の色が浮かんでいた。
そんなユリアの視線には気づきもせず、小男は「このバカ、なんてことをしやがる!」と怒鳴りながらあわててかがみ込んだ。
「差し上げますよ。それで文句はないのでしょう?」
地面に散らばった紙幣を掻き集めている小男を見下ろしながら、ユリアは冷然と言い放った。
「その代わり二度と来ないでください。なんなら、これも差し上げますから」
そう言って、ポケットから畳んだ紙幣数枚とコインをいくつか引っ張り出して投げつけたが早いか、ユリアはさっと踵を返すと、デアーク・フェレンツ通りの方へ引き返し始めた。小男はその背中に向かって
「おい待て! 親に向かってなんてことを言いやがる!」とわめいたが、彼女を引き止めるより金を拾い集める方が重大事らしく、すぐに追いかけようとはしなかった。
ザイコフはすっかり状況から取り残された形になりながらも、すぐに気を取り直し、急いでユリアの後を追った。この際、聞くべきことは聞き出しておきたかった。
それからしばらくは、とにかく滅茶苦茶に歩き回った。細い裏道を右へ折れ左へ折れ、パウラッチェンの中庭をいくつか通り抜けたり、時にはとても通路とは思えない狭い建物の隙間をすり抜けたりするうちに、ザイコフにはどこをどの方向へ歩いているのかさっぱり分からなくなってしまった。だが、ユリアはどうやら、この辺の地形にはかなり精通しているらしく、名もない通りから通りへと迷うことなく進んでゆく。しばしば後ろを振り返るのは、あの小男がついて来ていないのを確かめるのが目的らしく、すぐ後ろにいるザイコフのことは、特に気にしていない(あるいは眼中にない)様子だった。すでによほど土地カンのある者でなければ追跡は不可能だろうと思われたが、それでも念には念を入れるつもりか、ユリアは後ろを振り向き振り向き、細い裏通りを選びながら歩き続けた。
そんな風にしてどのくらい歩き回っただろう。ようやくザイコフにも見覚えのある大通りにぶつかった。右斜め前方にシナゴーグのドームがそそり立っている。ヨージェフ地区の北端・ラーコーツィ通りまであと数十メートルという地点だった。
ここまで来て、ユリアはやっと足を止めた。そして、まるで今ここで出会ったかのようにこちらを振り向くと、例によって無表情な声で「何かご用ですか?」と言った。
「いや、用という程のことではないが…」
そう言いかけて、ザイコフは言葉を切った。ユリアの左頬の上あたりが赤く腫れ上がっている。あの小男が最初に拳を振り回した時、避けきれずに殴られた跡だろう。もともとの皮膚の色が人並み外れて白いだけに、その赤さが痛々しかった。
ザイコフは思わず右手をのばして傷に触れようとしたが、すぐにその手を引っ込めた。ユリアが怯えたように顔をひきつらせ、反射的に身を引いたからだ。凍りついたかと思うほど全身を硬直させて、じっとこちらを見ている。そこで今度は左手で自分の頬を指差して「大丈夫かい?」と心から尋ねた。
「…ええ、大丈夫です」
ゆっくりと音をたてないように大きく息をついてから、ユリアはそう答えた。それからザイコフの右手をちらりと目で示し、少しきまり悪そうに「すみません、つい…」と言った。
別に気を悪くしてはいない、と言う代わりに、ザイコフは少し微笑んで見せた。彼女にとって、相手が右手を上げたらとっさに身を守るというのは、ほぼ反射行動になってしまっているのだろう。先刻の小男とのやりとりを思えば、これはあながち的外れな推測でもあるまい。あれが父親だとは…。さぞや複雑な思いを抱え込んでいるのだろう。そう考えると、感情表現に乏しいユリアがひどく気の毒になった。
だが、感傷に捕らわれて本来の目的を見失うわけにはいかなかった。ザイコフは真顔に戻ると、さりげなく話を切り出した。
「…少し立ち入ったことを聞いていいかな。さっきの男が君のお父さんだというのは本当なのか?」
「そういうことになっています、残念ながら…」
ユリアも、すっかりいつもの無表情に戻って言った。
「君はずいぶん彼を嫌っているようだが、今日はどうして会うことになったんだ?」
「あの男に会うつもりなどありませんでした。本当は入院中の母の主治医に会う予定だったのです。病状の経過を伺うためと、翌月分の治療費をお支払いするために、毎月第二日曜日にセンテンドレからお越しいただいていたのです」
「だが、今日はすでに第四日曜日だ」
「あちらはお医者さまですから、急に来られなくなるかも知れません。だから、もし予定の日にお会いできなかった場合は1週間ずつ先に伸ばすと、あらかじめ決めてあったのです」
「何故そんな…。君が病院に行けば済む事じゃないか?」
「最初はそうしました。でも、あの男が…」
ユリアはどうあっても『父』とは言いたくない様子だった。
「さっきの男がセンテンドレの船着き場で荷役夫をしていて、私が船を降りると目ざとく見つけて近寄ってきては、自分が払っておいてやると言ってお金を横取りしようとするので…」
「すると、お母さんの治療費は君がひとりで負担していたのか? あの男は?」
「母が亡くなったとたん、私から治療費をだまし取って自分の懐に入れることを考える男ですよ。あてになると思いますか?」
「それでは君は、毎月どのくらい支払っていたんだ?」
「1000フォリント」