マトリョーシカ
ザイコフはため息をついた。それは下層労働者の月収とほぼ同じ額だ。大学職員は少しばかり優遇されているとはいえ、ひとりでアパートを借りて生活しているユリアが、まともな収入だけで支払える額ではない。話はいよいよ核心に入りつつあった。
「そんな大金を、よく君ひとりで工面できたものだ」
慎重に言葉を選びながら、ザイコフはユリアの顔色を窺った。乏しいなりにも表情はある。それを見逃さない自信はあった。実際、少し横向き加減にうつむいて地面のどこか一点を見つめているユリアの顔には、何か言いあぐねているような、迷いの色が浮かんでいた。ザイコフは声を一段低くした。
「…どうやって工面していた?」
それでもなお、ユリアの決心はつかなかった。重苦しい沈黙がしばらく続いた。ザイコフは目を閉じてうつむき、左手の親指と人さし指で眉間をつまんだ。そして、そのままの姿勢で思い切って言ってみた。
「……うちの参事官…だね?」
一瞬の間をおいて、ユリアがこちらを向いた。それを気配で感じとると、ザイコフはゆっくりと顔を上げた。淡い紫の無感動な瞳が、まっすぐに目に飛び込んでくる。
「あなたの差し金だったのですね」
唐突にユリアが言った。
「最近、私のまわりに当局がつきまとっていると思ったら、あなたが私を調べさせていたのですね。それで今日は、あなたご自身が直々に私の監視ですか? どうりでタイミングよく登場なさったわけです」
相変わらず淡々とした口調だったが、その言い方には押さえた怒りが感じられた。それにしても、当局の監視に気づいていたとは、やはり彼女は…
「尾行に気づくとは、ずいぶん敏感なんだな」
「夜道で近づいてきたゴロツキが、私の背後を見て慌てて逃げ出せば、敏感でなくとも気がつきます」
そのユリアの返事は、プロではないかという疑惑を退けはしたが、別の意味でザイコフを驚かせた。
「なんだって? じゃ、君はまだあんな時間に歩いているのか? 私があれほど…」
「親切めかしたことを言われたのは、人通りのあるうちでないと尾行しづらいからですか」
冷ややかに切り返されて、ザイコフは少したじろいだ。と同時に、なんだか悲しい気持ちになった。
「…そんなつもりで言ったんじゃない」
「でも、私を監視なさっていた」
わずかに近づけたと思ったユリアの気持ちが、またすぅっと離れていくようだった。無理からぬことだ。あきらめにも似た心境で、ザイコフは話を先へ進めた。
「君が私や教授の正体を知っているような口ぶりだったので、気になってね」
「あなたがチェキストで、教授がそのスパイだということなら知っていました」
「そして君は、参事官から私と教授の監視役を仰せつかっているわけか」
「教授だけです。あなたのことは何も言われてません」
「具体的にはどんなことを命じられてるんだ?」
「教授宛ての郵便物の送り主や外線電話の相手、訪ねてくる学生の氏名や所属、教授の外出先と外出時間など、とにかく教授と外部との接触については細大もらさず記録して定期的に報告するようにと…」
「その仕事はいつから?」
「去年の夏からです。ちょうど母を入院させる費用のことで困っていた時に、ボロディン参事官に声をかけられました」
なるほど、とザイコフは思った。参事官はおそらくユリアの調査をした時に、母親の病気や彼女と父親との確執を知ったのだろう。そして、いずれは金銭的な動機で動かせると見込んで目をつけていたに違いない。だが、ファイルされていた人物調査書には、そんな記述はどこにもなかった。そのことからも参事官の個人的な思惑が感じられる。
「…参事官の要求は教授の監視だけなのか?」
そう尋ねると、ユリアは返事をする代わりに探るような目線を返してきた。
ザイコフはためらった。頭のどこかで、これ以上は問うなと叫ぶ声が響いた。その一方では別の声が、うやむやにしたくはないと叫んでいた。後者の方が少し声が大きいようだった。手の内に残していた最後の、そして最強のカードをゆっくりと開いて見せるように、ザイコフは静かに言った。
「君は15日の深夜、オクトゴン近くの『メドゥーズ』で参事官と接触しただろう。だが、そんな報告の受け渡しだけならデッドドロップで済むはずだ。わざわざ参事官本人が出向いて来るのは、何か他に目的があるとしか思えない」
「…そこまで分かっているのなら、答えも見当がついているのでしょう? それとも私自身の口から言わせたいのですか?」
こちらを見ているユリアの目から、ありとあらゆる感情が消え失せ、ガラス玉のように無機質になった。薄紫色の瞳の中央に、暗い底なしの空洞のような瞳孔がぽっかりと口を開けている。
「あなたの考えている通りですよ。私は慰みもののお人形です。参事官にとっては、むしろその方が重要で、教授の監視などというのはお題目にすぎないようですね」
こんな屈辱的な話さえ、普段と変わらぬ事務的な口調でユリアは話す。どうしてそんなに淡々としているのだろう? 聞いているザイコフの方が、怒りで体が熱くなってきた。
「では、君はそれを承知で黙って従っていたというのか?」
「お金が必要でしたから」
「…それは娼婦のすることだ」
「そうですね」
「いったい君は……平気なのか? そんな真似をさせられて、屈辱とも何とも思わないのか? よくもそんな涼しい顔をして…」
いきなり左の頬に電気が走ったような衝撃を感じて、ザイコフは口を閉ざした。一瞬の間をおいて熱のような痛みがじわりと広がった。思いがけない素早さでユリアの平手が飛んできたのだった。
きつく引き結んでいたユリアの口元がゆがみ、両目のふちにはみるみるうちに涙が溜まり始めた。それを隠すように急いで背を向けると、ユリアは無言で歩き去ろうとした。ザイコフがあわててその肩を捕まえて再びこちらを向かせようとすると、必死で体をねじるようにして顔を背けた。その拍子に、かろうじて表面張力を保っていた涙がついに滑り落ち、ザイコフの手の甲でぱたっと音をたてて弾けた。その生暖かい感触に、ザイコフはふいに頭が冷えた。
考えてみれば、彼女はついさっき母親の死を知らされたばかりなのだ。それに心底から嫌っているらしい父親と対面した上、殴られもした。そこへ自分は土足で踏み込んだのだ。そして無遠慮に根ほり葉ほり聞き出したあげく、感情的になって彼女をなじったのだ。ユリアにしてみれば、踏んだり蹴ったりもいいところだろう。
「…悪かった」
ザイコフは心から言った。ユリアは顔を背けたまま無言だった。肩がゆっくり上下しているのは、嗚咽を漏らさぬように呼吸を整えているからだろう。その肩を抱え込むようにして抱き寄せると、ザイコフはもう一度、銀色の髪の中に囁きかけるように「悪かった」と言った。
腕の中のユリアは身を固くこわばらせたままで、本当に人形を抱いているみたいだった。抵抗こそしないものの、決してザイコフの抱擁を受け入れてはいないことが分かる。そんなユリアを、ザイコフは腕に力をこめてさらに強く抱きしめた。
「君の気持ちも考えずに、なじったりしてすまなかった」