マトリョーシカ
何とも思っていないはずはない。彼女は人形ではないのだ。分かっていたつもりだったのに、あまりに淡々としたユリアの口調に思わず腹をたててしまったのは、自分自身が激しい屈辱を感じていたからだ。あんな下衆な男にユリアがそんな風に扱われていると知っては、とても平気ではいられない。ザイコフはついに自分の思いを自覚しないわけにはいかなかった。
やがて、ユリアの肩から徐々に緊張が抜けていくのが分かった。固くこわばっていた体から力が抜けて素直に身を預けるように寄り添ってきた。ザイコフを押し返そうとするように胸の前で組まれていた腕はゆっくりと移動し、そっとザイコフの背中にまわった。
ああ、まただ、とザイコフは思った。石の彫刻が生身の人間に変わっていく奇跡。それを今度は腕の中に感じとっていた。
抱擁を受け入れたユリアは、ザイコフの肩に頭をもたせかけて静かにすすり泣きを始めた。
ドナウの川面から発生した冷たい霧が、静かに街を被い始めていた。今夜はひどく冷え込みそうだ。さすがに寒くなってきたと思いながらも、肩の上の有機的な温かみが愛しくて、なかなか帰ろうと声をかける気になれなかった。声をかけたら、いつかの微笑のように、あっという間に霧散してしまうような気がした。せめて彼女が泣きやむまで、このまま抱きしめていよう。ザイコフはそう、心を決めた。
「…泣くと必ず殴られたんです。子供の頃」
夜霧にさらされて凍えきった身体を重ね合い、互いに体温を分け合って、少し汗ばむほどになった頃、ザイコフの胸に鼻先をくっつけたまま、ユリアがぽつりと言った。
ちゃんと聞いている、と言う代わりに、ザイコフは銀色の髪にそっとくちづけし、話の続きを待った。「笑いころげたり、はしゃぎまわったりしても殴られました。それで私は、あの男にはずっと反感を持っていたのですが、不服そうな顔を見せるとそれだけでまた殴られるので、そのうち私も学習して、とにかく何を思っても一切顔には出すまいと心に決めたんです」
「…それは、いくつぐらいの時の話?」
「4歳か5歳ぐらいでしょうか」
「泣いたりはしゃぎまわったりするのが当然の年頃じゃないか。そんなことで殴るとは信じられないな」
「いちばんの理由は私の容貌だと思います。当時は今よりももっと真っ白でしたから。もともと見た目が気に入らないのに、それが騒ぐとよけいカンに触るんでしょう。うるさい、うっとおしいの次には、必ず気味が悪いと言われました」
「……それはひどいな…」
ため息まじりにザイコフは言った。自分でも月並みなセリフだと思ったが、他に言いようがない。
しばらくの沈黙が流れた後、ユリアは再び話し始めた。
「そのうち感情を顔に出さないことにも慣れてきて、学校に入る歳になった頃には、特に気をつけなくても無表情でいられるようになりました。でも…」
「…今度はそれがあだになったんだね?」
胸もとでユリアが小さく頷いたのが分かった。
「ただでさえ風変わりな外見に加えて、泣きも笑いもしないというので、みんな珍しい動物でも眺めるように遠巻きに私を見ていました。中には面白半分にからかいに来る者もいましたが、まともに話しかけてくる生徒はいませんでした。『人形』と言われるようになったのは、その頃からです。
私にとって、感情を顔に出さないのは身を守る術でした。なのに今ではそのせいで嫌な思いをする事の方が多い。皮肉な話です」
「感情を隠すのをやめたらいい。そのことで今の君を殴る者はいないと思うがね」
「…そうかも知れません。でも、やはり私は恐いんです。それに、今さら感情を隠すなと言われても…。隠す方が自然になってしまっていて、表現の仕方が分からないのです」
「そんなことはないだろう。君は泣きも笑いもするし、怒れば私をひっぱたきもする」
ザイコフは笑って言ったが、ユリアは笑う代わりにふいに顔を上げると、真剣な目つきでザイコフの顔を覗き込んできた。
「そう…。どういうわけかあなたは、いとも易々と私の本心を引っ張り出してしまう。おかげで私は準備するひまもなく無加工の感情をさらけ出すはめになって、正直なところ、ひどく戸惑っています」
「…それは、迷惑だという意味なのかな」
ユリアの紫色の瞳を間近に見ながら、ザイコフは静かに尋ねた。どういう答えが返ってくるかはまるで予想がつかなかったが、たとえそうだという返事でも、驚いたり腹を立てたりはしないと決めた。
しばらくの間、ユリアは困ったような顔をしてザイコフを見つめていたが、やがてゆっくりと首を横に振って「分かりません」と言った。分かりません、か。その答えについて、ザイコフはしばらく考えてみた。以前にもユリアに「変わった方」だと言われて当惑したことがある。心を閉ざし、まともに人付き合いをしてこなかった彼女の言葉を、常識的な発想で解釈するのは誤解のもとだ。少なくとも迷惑だとは言わなかったのだから、今はそれを額面通りに受け取っておくことにした。
「ひとつ君に教えたいことがある」
改めてユリアを抱き寄せながらザイコフは言った。
「君は、自分の外見が他人に気味悪がられるものと決めつけているようだが、それは間違いだ。感情を表に現した時の君は魅力的だよ。特に笑うと、とてもきれいだ」
「………」
「無理にとは言わないが、たまに笑ってくれると嬉しいな」
ユリアからの返事はなかった。ザイコフの胸に顔をうずめたまま、じっと押し黙って何かを考えているようだった。
二人はそれきり言葉を交わさず、肌を合わせたまま夜が明けるまで、互いの呼吸の音を聞いてすごした。
次の日の早朝、ザイコフが帰ろうとする間際、ユリアはまるで宣誓でもするように今後は参事官の呼び出しに応じるつもりはないと言い切った。だが彼女がそう決めたからといって、簡単に解放されるものとも思えない。参事官に対しても何らかの手を打っておかなくては、とザイコフは思った。だが、あまり直接的な物言いをして下手な波風を立てては、かえってユリアの立場が悪くなるだろう。それにミーシャに迷惑をかけるのも避けたかった。
何かうまい手立てはないものか。そう考えていた矢先の12月25日。午後からハンガリー政府主催のクリスマスパーティーが開かれ、例によってザイコフも駆り出されて参事官夫妻に随行することになった。
適当に愛想を振りまきながら機会を待っていると、やがて参事官と奥方が別々のグループに別れて談笑を始めた。ザイコフは話の途切れるタイミングを見計らってするりと近づき、小声で参事官に耳打ちした。
「同志、少々お耳に入れておきたいことが…」
参事官はごく自然な風を装いながら談笑の輪を離れ、ザイコフの隣に並んだ。
「何かあったのかね?」
「実は、少々好ましからぬ話を耳にしました。同志、あなたについてですが…」
「どんな話だね?」
「実は、あなたが深夜に若い女性と密会しているという噂が立っているようです」