マトリョーシカ
参事官はぴくりと眉を動かし、ちらりと奥方の方に目をやった。奥方は外相夫人と熱心に話し込んでいる。グヤーシュにサワークリームを入れるのは煮込んでいる途中か最後か、というのが解決すべき最大の懸案になっているようだ。ザイコフは参事官の反応を注意深く観察しながら言葉を続けた。
「…まさかとは思いますが、そのような事実は?」
「ばかばかしい! 根も葉もない噂だ」
参事官は不機嫌な声で一蹴した。
「それならよろしいのですが」
「君はそんな噂を信じるのかね?」
「いえ。しかし、エージェントとの接触ならあり得るかと」
参事官はザイコフの真意が読み取れないと見え、ちらちらと横目でこちらをうかがっている。ザイコフはいかにも不名誉な醜聞を心配しているような神妙な顔をして見せた。
「たまたま女性エージェントと接触した事が、つまらぬ噂の種になることもあり得ます。同盟国内とはいえ、油断はできません。ご承知の通り、西側の情報機関も入り込んでいます。もし、そのような女性エージェントをお使いならば、できる限り『郵便箱』を利用なさった方が…」
「そういえば確かに、先週ある女性エージェントと接触した。向こうが条件的な問題について話し合いたいと言うので特別に会ったのだ。だが通常は、君に言われるまでもなく、直接の接触は避けているとも」
さすがは嘘をつきなれている男だ、とザイコフは内心で舌打ちをした。こちらの出した助け舟に無条件にしがみつくことはせず、事実の一部を認めてつじつま合わせをしながら、より都合のよい説明をつけてみせるものだ。
「それをうかがって安心しました」
「ところで、君にその話をした者は…」
「きちんと口止めしておきました。ご安心ください」
参事官の言葉を遮るようにそう言うと、ザイコフはにこやかに一礼して参事官のそばを離れた。ルーマニア大使が近づいてきたからだ。例の件でパーティを辞去しただけに、参事官には避けるわけにもいかぬ相手だろう。話を打ち切るにはちょうど良かった。
参事官のような官僚的なタイプは、とかく醜聞を恐れる。それなら自制すれば良さそうなものだが、そういうタイプに限ってなぜか、浮気だの賭博だのといった醜聞のタネを、律義に自分で蒔くから不思議だ。ともかく、参事官も自ら蒔いたタネが芽吹きかけているとをほのめかされて、少しは肝を冷やしたに違いない。目の前に奥方の姿があったのも、より効果的だった。
これで少なくとも当分の間は、ユリアを呼び出すのをひかえるだろう。
翌26日。その年最後の連絡のためにプレチュニク教授を訪ねたザイコフは、帰りぎわ、ユリアにそっと食事に誘いたい旨を耳打ちしたのだが、ユリアはあっさりと首を横に振った。
「せっかくですが、今日は少し熱があるようなので遠慮いたします」
「では、日曜日なら応じてもらえるかな?」
「申し訳ありませんが、今の段階ではお約束のしようがありません」
例によって事務的で慇懃なしゃべり方で、実にむげに断ってくれるものだ。まあ、確かに今の時点では明後日までに回復するかどうか分からないと言われればその通りだが、これではあまりに機械的だと、ザイコフですら思ってしまう。
だが、ここで腹を立てても仕方がない。これまで他人とまともに付き合ったことのないユリアに世間並みの受け答えを期待するのは、性急にすぎるというものだ。こちらが鷹揚に構えるしかあるまい。
ザイコフは小さくため息をついて言った。
「分かったよ。ではまた別の機会に改めて」
「…すみません」
ユリアは、今度は本当に申し訳なさそうな顔(少なくともザイコフにはそう見えた)になって言った。乏しいなりにも表情はある。ザイコフは頷いて微笑して見せた。
「今度は応じてくれることを期待してるよ」
結局、それきりユリアと顔をあわせる機会がないまま、1958年は過ぎていってしまった。
ザイコフが緊急の呼び出しを受けたのは、1959年1月4日。日曜日の午後のことだった。新年早々何ごとだろうと思いながら『情報室』に赴いたザイコフを待っていたのは、参事官と、なんとアンドロポフ大使だった。
通常、大使館内の『情報室』には、たとえ大使といえどもKGB職員でない者には立ち入りが認められていない。にもかかわらず、この日は大使が部屋の中央に据えられた会議テーブルの正面に堂々と着席しており、本来この部屋の主であるはずの参事官は、そのとなりで神妙な顔をしているのだった。
「やあ同志。待っていたよ」
先に口を開いたのも大使だった。そして、ザイコフが意外な光景に驚いている様子を見て、もっともだというように何度か頷きながら言った。
「まあ、まずはかけたまえ。私がここにいるので驚いただろうが、少々面倒な事態が生じてね。外交上の問題を含んでいるので、同席させてもらうことにした。モスクワの許可も得ている」
ザイコフは言われるままに二人の向かい側に着席し、黙って話の続きを待った。参事官は腕組みをしたままテーブルの上のどこか一点を睨んでいて、口を開く様子はない。どうやら完全に大使が主導権を握っているらしい。いったい何が起こったというのだろう?
大使は手に持った数枚のメモらしき紙をぱらぱらとめくってから、それをテーブルの上でとんとんと揃えると、眼鏡の奥の鋭い目をザイコフに向けた。
「実は今朝、イギリス公使館から連絡が入ったのだが、あるハンガリー人女性がイギリス公使館にあてて、一通の封書を送りつけてきたそうだ。その内容は我が国の外交上の秘密を暴露するもので、これが世界に知れ渡ると、我が国はゆゆしき立場に立たされて著しく利益を損なうことになる」
「…それをイギリスがわざわざ知らせてきたのですか?」
「そう。今朝がたね」
「しかし何故? イギリスにとっては願ってもない収穫でしょう。黙って利用すれば良さそうなものを、わざわざ我々に連絡をよこす意図が、どうにも解せないのですが…」
「分からないかね?」
ザイコフは真剣に考えたが、西側の情報機関(公使館といったが、どうせ内部にMI6の関係者が潜んでいるのだろう)が、せっかく手に入れた情報をソ連側に流して得られるメリットというのは考えつかない。むろん取り引きというのはあり得るが、そのために情報の入手源まで明かしたりはしないだろう。
「残念ながら、私には分かりません」
しばらく考えた後、ザイコフは正直にそう言った。
大使はそれまで刺すような鋭い目つきでザイコフを観察していたが、この答えを聞くと小さく頷き、少し満足そうな顔になって言った。
「暴露されたのが、スエズ工作の話だったからだよ」