マトリョーシカ
ザイコフは一瞬にして理解した。2年前、ハンガリー動乱とほぼ同時期に起こったスエズ危機は、国連やアメリカの目を、ソ連のハンガリーへの軍事介入から逸らす恰好の材料になった。イスラエルがエジプトに侵攻したのをきっかけに、英仏両国がスエズ運河を航行する外国船舶の安全を守るという名目で運河地帯を「一時的に」占拠した事件だが、実際にはスエズ運河の利権をエジプトから取り戻したがっていた英仏が、イスラエルを抱き込んでひと芝居うったというのが真相だ。結局、下心の見え見えだった英仏は国連の批難を浴び、アメリカに圧力をかけられて、1ヶ月後には撤退させられてしまった。
だがその1ヶ月は、ソ連にとって貴重だった。ブダペスト蜂起に後押しされる形で成立したナジ政権を一旦は承認して戦車部隊を撤退させたものの、英仏がスエズに出兵するや再度ブダペストにとって返し、国連の目がスエズに向けられている間にナジを追放して傀儡政権を作り上げてしまった。首都を占領するのに4日間、ハンガリー全土を平定するのにも10日間ですんだ。そうして国連がスエズから目を転じた時には、すでに既成事実が出来上がっていたのだった。
この二つの事件は「たまたま」同時に起こったと考えられているが、当初はイスラエルが悪役を押しつけられることに難色を示していたため、エジプト侵攻が実現するまでにはもう少し時間がかかると見られていた。それが10月末になって、渋々ながらもイスラエルが英仏の計画に同意するに至ったのは、実は裏にKGBの工作があったからなのだ。
10月22日の深夜には、KGBは翌日のブダペストの民主化要求デモが暴動に発展することを見抜いていた。デモを計画した工科大学の学生の中に、エージェントが潜り込んでいたからだ。情報はプレチュニク教授を経由して大使館に伝わり、速やかにモスクワへと流れた。それ以前に英仏のスエズ占領計画をつかんでいたモスクワは、これをハンガリーへの軍事介入の隠れみのに利用することを思いつき、ただちに、だが英仏には知られぬように、イスラエル政府内の手駒を動かして、遅くとも10月中にはエジプトへの侵攻を開始するようベン・グリオン首相に圧力をかけたのだ。
「我が国はスエズの件では英仏を公式に非難し、国連での影響力を拡大さえした。それだけに、この工作が明るみに出れば、我が国に対する国際的な非難は避けられまい。現カーダール政権の承認の是非も蒸し返される恐れがある。
一方イギリスにとっても、これは諸刃の剣だ。英仏とイスラエルとの共謀関係を裏付ける決定的な証拠になってしまうのだから、ありがたくない話だろう」
確かにその通りだった。これまでのところ、ホワイトホールは共謀の事実を頑なに否定し続けている。ヨルダンの手前もあるだろうが、何よりもアメリカの手前、認めるわけにはいかないのだろう。2年前のブダペスト動乱を仕組んだのは西ドイツのゲーレン機関だが、裏で資金を出していたのはCIAなのだ。ハンガリーの離反をきっかけに、ソ連と東欧との関係を叩く腹づもりだったのだ。ところがその目論見は英仏の暴走でフイにされてしまった。アメリカが英仏のスエズ占領をあれほど手厳しく非難したのは、そんな裏事情もあってのことだ。損失を贖えと言わんばかりの経済制裁を受けて、イギリスは未だに苦しんでいる。この上、彼らのスエズ侵攻作戦があのタイミングで始まったのは、実はKGBが巧妙に仕組んだシナリオに躍らされた結果だと分かったら、アメリカはどれほど激怒することだろう。そんな資料が公になれば、イギリスは自分の首が絞まるばかりだ。
「そういうわけで我々とMI6との間で取り引きが成立した。彼らの手に渡った証拠書類や資料はすべて我々に返却された。彼らに接触した女性の身元についても連絡を受けている。そこで我々は彼女を反革命容疑で捕らえて、イギリス側を安心させてやるというわけだ」
これだけの説明を終えると、大使は右手でちょっと眼鏡を持ち上げた。その奥で、鋭い目はまだこちらを観察している。
「事情は理解しました。それでは、その女性を逮捕するのが私の使命ということですか?」
ザイコフがそう言うと、大使は頷いて「やってくれるかね?」と言った。参事官は相変わらず腕組みをしたまま、不機嫌そうな顔をうつむけ、本来の職務まで大使に一任した格好だ。
「使命であれば、もちろんお引き受けします」ザイコフはきっぱりと言った。
大使はにっこりと笑うと、参事官の方を向いて言った。
「聞いたかね、同志。やはり君の考えすぎだったようだな」
「…どういうことでしょうか」
大使の言葉に不穏な意味を感じてザイコフは尋ねた。すると、それまで貝のように押し黙っていた参事官が、初めて口を開いた。不機嫌を絵に描いたような顔だった。
「この件、君は事前に知ってたんじゃないのかね? 問題の女性とも、ずいぶん親しいようだが」
大使が軽く片手を上げて参事官の皮肉を諌めた。ザイコフは眉をひそめて参事官を凝視した。…まさか。
「その女の名はルカーチ・ユリア。経済大学のプレチュニク教授の秘書だ。君は教授の担当連絡官として彼女ともよく顔を合わせていたはずだし、個人的な付き合いもあったんじゃないかね?」
自分が青ざめていくのが自分で分かった。大使の鋭い目が自分に注がれているのに気づいたが、ショックを隠すことはできなかった。ユリアの秘密はあれで全部だと思っていた。よもやこんな大それた計画を企てていたとは、思いもよらなかった。
「君は参事官について、ひどく不名誉な噂が立っていると言ったそうだが、その噂を君に吹き込んだのはもしやこの女性だったのではないかね?」ザイコフから目を離さずに大使が言った。「彼女は自分の行動を容易にするために、君に参事官への不信感を植え付けて、我々の結束を乱そうとしたのではないか…というのが参事官の意見だ」
「あるいは君自身が彼女と何らかの協力関係にあって、KGBハンガリー駐在部の長である私を陥れようと考えたか」と、参事官がつけ足した。
どうやら参事官本人は、こちらの方を強く主張したかったらしい。先日のパーティでザイコフが釘を刺したことを根に持って、ザイコフにも容疑を被せたがっているのだ。だが大使はあっさりと手を振って参事官の説を否定した。
「ああ、それはないよ同志。それはない。先ほどから事態を説明しながら彼の様子を観察させてもらったが、どうやらこの件は彼にとっても初耳だったようだ。それに誰かを醜聞で陥れようと思ったら、本人より上の者の耳に入れるのが普通だろう。だが、ともかく」大使はザイコフの方に向きなおった。「参事官は、君のいう噂を否定している。君は本当はどこからそんな話を仕入れてきたのだね?」
アンドロポフ大使がわざわざこの場に同席した理由が何となく分かってきた。つくづく大使の慧眼には脱帽したくなった。だが、ここでミーシャの名を出すわけにはいかない。
「ご推察の通り、ルカーチ・ユリア本人が、参事官とのそのような関係をほのめかしましたので」
「ばかも休み休みに言いたまえ!」と参事官が怒鳴った。「第一、彼女といつ、どこでそういう話をしたのかね? 君はやはり、あの女と特別な関係にあったということじゃないか!」