マトリョーシカ
ザイコフは思わず参事官を睨み返していた。だが、いつか下衆な邪推をされて腹をたてた時とは事情が違っていた。確かに今では彼女との間に個人的な関係を持っている。だがそれは、自分自身の誇りにかけて、隠さねばならないような性質のものではない。
ザイコフはきっぱりと言い切った。
「確かに私は、彼女に対して個人的な好意を持っています」
「…ほう、認めるのかね?」
参事官はさも驚いたと言うように目を丸くし、それからニヤリと笑った。つくづくカンに触る笑い方だ。ザイコフの語気が強くなった。
「認めます。しかし、自分の職務に対する自覚は常に持っています。誓って言いますが、私は断じて祖国を裏切るようなことはしていません!」
「私に対する露骨な悪意は、それだけで充分に裏切り行為だ!」と参事官がわめいた。
「弱味につけこんで彼女を手前勝手に弄んだのは、職権濫用じゃありませんか!」
ザイコフはテーブルを叩いて怒鳴り返した。
「君はそれを本気で信じているのか! いったい何の証拠があって…」
「いい加減にしたまえ、二人とも」
とうとう大使が口をはさんだ。よく響く鋭い声だった。おかげでザイコフは自分が少々熱くなりすぎていたことに気がついた。気を鎮めるために右手を額にあてて目を閉じ、ひとつ大きく息をついた。
「確認させてもらうがね」
ザイコフが再び顔を上げるのを待って、大使がゆっくりとした口調で尋ねた。
「参事官が職権を濫用しているという話は、その女性の口から聞いたことなのだね?」
何か言おうとした参事官を、大使はもう一度片手を上げて制しながら穏やかに質問を続けた。
「それとも君は何か、彼女の言葉を裏づけるような事実をつかんでいるのかね?」
ザイコフは一瞬、返答につまった。公安局の報告を持ち出せば、ミーシャの名を出さざるを得ない。彼が個人的にザイコフの調査依頼を引き受けたのは越権行為に違いなく、ここで引き合いに出そうものなら、ミーシャを面倒な立場に立たせることになる。親友の好意をあだで返すわけにはいかなかった。
「…いいえ」絞り出すようにして、ザイコフはやっと答えた。「いいえ。これといっては何も…」
その途端、参事官がちらりと安堵の表情を覗かせたのを、ザイコフは見逃さなかった。あなたのためではない! ザイコフは心の中で怒鳴った。ミーシャの名を出してユリアを救えるものなら、ためらわずにそうしただろう。だが、彼女が本当にそんな企てを起こしたのなら、今さら参事官の罪悪を告発したところで彼女の行動が帳消しになるとは思えないし、それならばこんな男を追い落とすより親友の立場を守る方が優先順位が高いだけだ。
「本当かね?」と大使が念を押した。ザイコフは黙って頷いた。
大使はしばらくの間、眼鏡の奥からじっとこちらを観察していたが、やがて大きく息をついて眼鏡を外し、持っていたメモの束を机の上に放り出した。
「よろしい。それならば同志アレクサンドル・マクシモヴィチ。反体制分子の女の言葉と我が同志とでは、どちらを信じるべきか考えるまでもなかろう。君は感情と職務は別だと言ったのだから、自分自身の言葉に従って使命を果たしたまえ。この女性の身柄は、今夜中に確保するように。以上だ」
それだけ言うと大使は参事官に目配せし、さっさと『情報室』を出ていってしまった。
自分に対する大使の追及を回避できた安堵感からか、参事官はいくぶん平静を取り戻したようだった。
「では、君の職務に対する自覚とやらを証明してもらおうか。あの女は、君にとっては惚れた女でも、祖国にとっては革命の敵だ。そのことを肝に銘じて使命を果たしたまえ」
意地の悪い目つきでザイコフを睨みながらそう言うと、参事官はテーブルの上に市街図を広げた。
「ルカーチ・ユリアと接触したMI6の男は、今夜11時半に『彼女を国外に脱出させる人間』が自宅に迎えに行くと約束したそうだ。あとは我々が引き継いで、女をモスクワへ送る寸法になっている。まあ、国外に『脱出』させることに変わりはあるまい」
参事官から皮肉交じりの指示を受けながら、ザイコフは未だにユリアの起こした企てが信じられずにいた。彼女が反体制などという政治思想を持っていたとは、どうしても実感できない。
ザイコフの混乱をよそに、時計の針は正確に時を刻んでいく。行動開始の時刻はもう間もなくだった。
午後11時30分。
ザイコフは指示された通りにユリアのアパートのドアをノックした。3回、3回、2回。やがて中で人の動く気配がし、ノブの上下に取り付けられた鍵が回る音がした。
ドアを開けたユリアは、目の前に立っているザイコフを見てぎくりとした顔になった。はっきりと分かるほどに大きく目を見開いて息をのむ様子は、普段の表情の乏しさを考えれば、相当な驚きようだと言えるだろう。すっかり身支度を整えて迎えを待っていたらしく、銀色の髪はきちんと結い上げられ、肩には長いコートをはおり、片手に黒い帽子、もう一方に大きな旅行カバンを下げている。
そんなユリアの服装にちらりと目を走らせてから、ザイコフはゆっくりと口を開いた。
「ずいぶん大きな荷物だね。どこかへ旅行かな?」
「…何か私にご用ですか?」
ユリアはいつもと同じ言葉で応じたが、さすがに声が震えていた。
「イギリス人に頼まれて君を迎えに来たんだ。せっかく身支度を整えたようだが、その荷物は必要ない。君がどこへ行く予定だったかは知らないが、行き先はモスクワに変更になった」
「おっしゃる意味が分かりません」
「MI6には、君を引き取る意志はないそうだ。…君は売られたんだよ、我々にね」
「…何故でしょう?」
これだけのことを言われてなおシラを切ることを、潔しとはしないのだろう。ユリアはMI6との接触をあっさり認めて、彼らの裏切りの理由を尋ねているのだった。
「君は西側諸国が一枚岩だと思っていたようだが、西側にもスエズの陰謀を暴かれると困る国がある。イギリスもその中のひとつなんだ。君は話を持ち込む先を間違えたのさ。CIAだったら諸手を上げて歓迎してくれただろうに、残念だったね」
ザイコフの説明を聞きおえると、ユリアは小さくひとつため息をついた。それからカバンをその場に置き、はおっていたコートを脱いで居間に戻ると倒れ込むようにソファに身を沈めた。その後を追ってザイコフも居間に入った。以前に訪れた時には椅子の上や床に本が散らばっていたものだが、それらもすっかり片付けられ、室内はこころなしか寒々として見えた。
もう一方の空いているソファに腰掛けて、ザイコフはユリアと向かい合った。ひと月前に初めてこの部屋を訪れた時とは、まるで違った重苦しさだった。
「私にとっても寝耳に水だったよ。君がこんなことを企んでいたとは夢にも思わなかった」
聞いているのかいないのか、黙ったまま顔を横に向けて床の一点を見つめているユリアの顔を、食い入るように眺めながらザイコフは続けた。
「公安局からの報告でも、君が反政府活動家のグループと接触した様子はなかったし、2年前の動乱の時も、デモには参加していなかったと聞いている」
「あの時も、思いは人々と同じでした」