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マトリョーシカ

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 相変わらず床に目を落としたまま、ユリアはようやく重い口を開いた。
「ただ、私には他の人たちと同じように熱狂的に振る舞うことができなかっただけです」
 言われてみれば確かに、デモに参加して大勢と共に声をあげるユリアというのは、ちょっと想像できなかった。ひとり大学の図書館にこもって、外の喧噪にじっと耳をすましていたのだろう。
「教えてくれないか。何故、こんなことを…?」
「…ずっと考えていたんです。父が生きていたら…と」
「なんだって…?」
 話は唐突に飛躍した。ユリアがいきなり何を言い出したのか、本当に分からなかった。
「生きていたら…って、君の父親はあの…」
「あれは継父です」
 ぴしゃりと遮られてザイコフはいったん口をつぐみ、それから独り言のようにつぶやいた。
「…どうりで似てないと思った」
 そういえばあの日、本当にあれが父親なのかと問うたときユリアは、そういうことになっています、と答えたのだ。いま思えば、確かに微妙な言い回しだ。もしかすると彼女は、そんな言い方でザイコフに水を向けたのだろうか。だがあの時のザイコフは、彼女と参事官との密会の件にばかり気を取られて、迂闊にも聞き流してしまったのだ。ザイコフは唇を噛んだ。あの時、すぐに気づいていたら…。気づいてその場で問いただしていたら、こんなことになる前にユリアを止められたのかも知れない…。そう思うと、自分で自分を殴りつけたい気分だった。
 ユリアはゆったりと座り直して足を組むと、自分のつま先のあたりを見つめながら長い独白を始めた。
「私の本当の父親は、ロージャ・エルネーという名のドイツ系ハンガリー人です。子供の頃に経験した社会主義革命に影響されたとかで、熱心な共産党員だったそうです。30年代半ばに入って、この国がナチス・ドイツに急接近し始めると、父はドイツ系でしたけれども、それをひどく憂えていたそうです。ちょうどその頃に私が生まれたのですが、理想に燃える父は、数名の仲間と共にソ連へ留学することを決め、母と私を残して1年間の予定でモスクワへ出発しました。そして、帰っては来なかったのです。詳しいことは分かりませんが、滞在中にトロツキストと親交を持ったとかで投獄され、その後ドイツ系だったためにスパイ容疑が加わって、処刑されたのだと聞いています。1936年のことでした」
 1930年代のスターリンによる大粛清のことは、ザイコフも知識としては知っていた。特に34年から38年にかけては熾烈を極め、トロツキストもしくはその疑いがあると見なされた人物は、熱心な共産主義者であろうとなかろうと容赦なく粛清の対象とされた。偏執狂のスターリンは、トロツキーとその支持者がもうひとつ別の共産主義を編み出すのではないかと恐れ、彼らを徹底的に抹殺することに最大の関心をはらっていたからだ。そのために多くの熱意ある同志たちが理想を打ち砕かれ、幻滅を味わって消えていった。スターリンとベリヤの死後、フルシチョフがそう言って粛清の実態を激しく批判したのは5年前、ザイコフがまだ学生だった時のことだった。
「それから2年後、母は幼い私をつれてルカーチ・ベーラと結婚しました。先日あなたがご覧になったあの男です。どういうわけで母があんな男と一緒になったのか、その理由は分かりません。私が覚えているのは、ある日突然あの男に引き合わされて、この人がお前の父親だと言われた時の当惑だけです。
 それでも私は、なんとかその新しい人間関係を受け入れようと努力しました。信じて下さらないかも知れませんが、3歳の子供だって努力はするんです。でも、それはまったくの無駄でした。しばらくするとあの男の継子いじめが始まり、私はあの男を憎むようになりました。そして何かの折に、本当にあんな男が私の父親なのかと母を問い詰めたのです。本当の父のことは、その時に初めて聞かされました。
 ですから実の父であるロージャ・エルネーについて、私自身は何の記憶も持っていません。それでもルカーチ・ベーラに殴られるたびに、実の父ならこんな仕打ちはしなかったかもしれない、父が生きて帰国してさえいたら…と思わずにはいられませんでした」
 ユリアはそこでいったん言葉を切り、ちょっと息をついた。それからようやく顔を上げると、紫色の瞳をまっすぐこちらに向け、ゆっくりと言葉を区切るようにして言った。
「だから私は、ルカーチ・ベーラを憎むと同時に、ガスパディーン、あなたの国を憎悪していたのです」
 ザイコフは思わず顔を被って絶句した。しばらく言葉が出てこなかった。反体制などというレベルの話ではなかった。ユリアにとっては、政治や思想などどうでもよかったに違いない。ただただ個人的な憎しみに突き動かされて、ふたつの国を揺り動かすほどのスキャンダルを暴いてしまったのだ。
 それにしても、あの冷たい無表情の仮面の下に、なんという暗い情念を隠し持っていたことか。つくづくユリアが哀れになった。だが、彼女がすでに行動を起こしてしまった以上、もはやどうすることもできない。もっと早くに打ち明けてくれていたら、何とか救いようもあったろうに…。
「なぜ………」
 なぜあの夜、すべてを話してくれなかったんだ……。思わず口に出しかけたその問いを、ザイコフは飲み込まざるを得なかった。愚問だった。答えは分かりきっていた。
 私がKGBだから…か。
 やりきれなかった。ユリアの信頼を勝ち得たつもりになっていた。彼女が心を開いてくれたと思っていた。けれどそれは思い上がりでしかなかったのだ。私には、養父に対する憎悪は打ち明けられても、ソ連という国に対する憎悪は打ち明けられなかったというわけだ…。
「スエズの資料は、どうやって手に入れたんだ?」
 やりきれない思いを振り払うように顔をあげると、ザイコフはやっとそれだけ聞いた。
「教授が帰宅されたあと、秘密のファイル棚から捜し出して写しをとりました」
 ザイコフは苦笑した。あの晩、大学の前でユリアに出会ったことが思い出された。すでにあの時点で、ユリアは入念に計画を進めていたのだ。自分はずっと彼女に騙されていたわけだ。
「でも…」と言いかけて、ユリアが少し言い淀んだ。
「何だ?」
「…でも、最初にヒントを下さったのは、実はボロディン参事官です」
 ザイコフは眉をひそめた。また参事官か。
「参事官には、いろいろな内緒話をうかがいました。もっとも、あの方は人形相手のひとり言のつもりだったのでしょうけれど、よく自分の苦労話や自慢話をなさいました。そんな寝物語のひとつとして、スエズ工作の成功を聞かされました。おかげで私は、探すべき書類を絞ることができたのです」
 反体制分子と我が同志とでは、どちらを信じるべきか考えるまでもない。頭の中で大使が言った。
「参事官は君との関係を否定している」
「そうでしょうね。人聞きのいい話ではありませんし」
「…君の狂言ではないのか」
 ユリアの顔を、半ば睨みつけるように凝視しながらザイコフは言った。言いながら、少しずつ語気が強くなっていくのを抑えることができなかった。
「作り話で、私に参事官への不信感を植え付けようとしたんじゃないのか!?」
作品名:マトリョーシカ 作家名:Angie