二次創作小説やBL小説が読める!投稿できる!二次小説投稿コミュニティ!

オリジナル小説 https://novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
二次創作小説投稿サイト「2.novelist.jp」

マトリョーシカ

INDEX|4ページ/25ページ|

次のページ前のページ
 

 ほどなくして、ひとりの女性がティーポットとカップふた組みをのせた盆を持って入ってきた。
「ユリア。こちらはソ連大使館のアレクサンドル・ザイコフ君だ。今後イェレンコ君に代わって時々ここへお見えになる。あいさつしておきなさい」と教授が声をかけた。
 ユリアと呼ばれたその女性は、いったん盆をテーブルに置くとザイコフに向かって軽く頭をさげた。
「Я Лукач Юлия,секретаром профессора.Рада познакомиться с Вами.(教授の秘書のルカーチ・ユリアです。お近づきになれてうれしく思います)」
 まるで教科書に載っている例文を棒読みしているみたいなロシア語だった。発音は完璧だが、何の感情もこもっていない。
 その時にはもう、ザイコフにも教授の言葉の意味がすっかり理解できていた。確かに見ればすぐに分かる。とにかく異様に白いのだ。顔も手も紙のような色で、とても生きた人間の肌の色とは思えない。瞳は赤みがかった紫色という珍しい色で、肩まで届く長い髪も見事な銀髪。…要するに身体の色素が極端に薄いのだ。しかも、その顔には表情らしい表情というものがなかった。にこりともしないが、不機嫌というわけでもない。本当に完璧な無表情である。その顔立ちがまた、人並外れて整っているものだから、ほとんど造りもののように見える。こうした条件が全部そろって、まるで大理石の彫刻が動いているかのような印象を与えるのだ。
 ザイコフは驚きのあまり、しばらく口をきくのも忘れてしまい、はっと我に戻って彼女に挨拶を返そうとした時には、彼女はすでにポットやカップをテーブルに並べる作業に戻ってしまっていた。
「ほっほっほ…、驚いたかね。まあ無理もないが」
 そんなザイコフの様子を見て、教授はさも嬉しそうに言った。
「この子は先天的に色素が薄いらしくてね。眼・皮膚型アルビズムとかいう、ま、一種の畸形だよ」
 その言葉に、ザイコフはぎょっとして教授の顔を見た。本人が目の前にいるというのに、何という言葉を使うのだろう。思わず教授の神経を疑った。だが当の女性の方は眉ひとつ動かさず、相変わらず無表情のままでテーブルの上を整えると、「失礼します」とだけ言って、さっさと部屋を出ていってしまった。まるで何も感じていないかのようだった。
 彼女がドアを閉めるのを見届けて、教授は話を続けた。
「最初は私も気味が悪かったがね。あれでどうして、秘書としてはなかなかの拾い物だよ。頭は悪くないし、語学にも堪能だしね」
「すると、ロシア語以外にも?」
「うん。ドイツ語と、少しばかり英語もできるよ」
「それは優秀ですね…」
「おかげで文献を探させたり分類させたりしても仕事が早いよ。だが、何よりいいのは従順なことだ。何を言いつけても文句を言わないし、指示した事にはいちいち理由を尋ねたりせずに従う。あの通りの愛想なしだが、機械だと思えば便利なものだよ」
 おそらく教授は面白い冗談を言ったつもりなのだろう。楽しそうにくすくすと笑い出したが、ザイコフは笑う気になれなかった。他人を畸形だの機械だのと平気で言ってのけるこの男を、あまり好きになれそうもない。もちろんザイコフとて、自分が足を踏み入れたこの世界で、きれいごとが通用するとは思っていない。これから先、国家の大義のためには、いくらでも他人を欺いたり利用したりすることになるだろう。だが、大義とは無縁のところでまで、こんな風に無神経にはなれないし、なりたくもなかった。
 教授がひとしきり笑いおえたところで、ザイコフは雑談を打ち切るように口調を変えた。
「ところで教授。そろそろ本題に入りたいのですが…」

 教授との密談を終えて前室に出てくると、くだんの女性秘書が自分の席に座って熱心にタイプライターのキイを叩いていた。
「お邪魔したね」
 ザイコフが声をかけると、彼女はちらりとこちらを見た。だが、タイプを打つ手を休めようとはせず、無言のままわずかに頭を下げただけで、すぐに目線を手元に戻した。本当に愛想というものがない。先刻ザイコフが返事もせずに彼女を不躾に眺めたことで、あるいは気を悪くしているのだろうか。とりあえず非礼は詫びておこうと思って、ザイコフは彼女の机に近づいた。
「ジェーブシカ。先ほどは失礼した」
 タイプの音がぱたりと止んだ。一瞬、何かを考えているような間があって、それからようやくルカーチ・ユリアはまともにザイコフを見上げた。
「何のことでしょうか」
「挨拶されて返事もしない男に、さぞ気を悪くしただろう」
 彼女はすぐには返事をせず、じぃっと無感動な視線をザイコフの顔に注いでいた。薄い紫の瞳の真ん中で、瞳孔の黒い点だけがよく目立つ。そのピンホールの向こう側には、底なしの暗闇が広がっているような気がして、ザイコフは少しぞくりとした。何を考えているのかさっぱり読み取れないせいだ。
「気になさることはありません、ガスパディーン。あなたに限ったことではありませんし、私も慣れておりますから」
 数秒間の沈黙の後で、やっと彼女はそう応えた。素っ気ない口調に変わりはないが、少なくとも教科書の例文ではない、彼女自身の言葉が含まれていた。無表情ではあっても、思考はきちんと働いている。本当に機械人形というわけではないらしい。
 ザイコフは少しほっとした。気分に余裕が戻ってきて、自然に例の社交的な笑みが浮かんだ。
「だが非礼には違いない。やはりお詫びしておくよ。その上で改めて言うが、どうか以後よろしく。ガスパディア・ルカーチ」
 それに対する彼女の反応は、またしても沈黙と凝視だった。やれやれ、とザイコフは心の中でつぶやいた。何を考えているのか知らないが、いちいち人の顔を眺めながら黙り込まなくてもよさそうなものだ。
 ザイコフの困惑をよそに、たっぷり5秒ほどこちらを見つめた後で、ルカーチ・ユリアは再びタイプライターのキイに目を戻し、黙ってゆっくりと頭を下げた。
「では、今日はこれで…」
 ザイコフはそう言って会釈すると、そそくさと部屋を出た。ドアを閉めると、またタイプライターの音が聞こえ始めた。
 なんとも奇妙な女だ、とザイコフは思った。

 それが、ルカーチ・ユリアの第一印象だった。



 ザイコフは1週おきにプレチュニク教授を訪問し、その度にルカーチ・ユリアと顔を合わせた。 彼女はたいてい前室の自分の席にいて、ザイコフが来るとまず教授に取次ぎ、それからお茶を運んできて、執務室のドアを閉めて出て行った。話を終えてオフィスを出る時は、ザイコフが「お邪魔したね」と言って会釈をし、彼女は無言のおじぎで応える。
 それはまるで判で押したようにいつも同じだった。彼女は相変わらず無表情で口数が少なく、あくまで事務的な応対をしたし、ザイコフの方も必要以外の言葉はかけなかった。向こうがこちらに関心を示さないのなら、あえてこちらから話しかける必要はない。余計な話をせずに済むなら秘密が漏れる心配もないのだから、かえって都合が良い。それにザイコフ自身にとっても、彼女の意味不明の沈黙に戸惑わされずに済むのは気が楽だった。
 そのようにして、9月と10月は何事もなく過ぎていった。
作品名:マトリョーシカ 作家名:Angie