マトリョーシカ
お決まりのパターンが崩れたのは11月の初め。おそらく5回目の訪問をした時だった。
いつもは「こんにちは」と言いながら軽く会釈するだけで、すぐに執務室の教授に声をかけていた秘書が、その日は開口一番に「ガスパディーン、申しわけありません」ときた。ザイコフがなにごとかと目で問い返すと、彼女は例によって無表情のままで、淡々と事情を説明した。
「実は今日になって緊急の教授会が開かれまして、ただいま教授はそちらの方に出席しております」
「すると当分は戻って来られないのかな? 会議の終了予定は分かるだろうか?」
「予定では15分後に終了することになっていますが、長引きますと何時になるかは…」
「そういう会議は長引くことが多い?」
「議題によってまちまちのようです。予定より早いこともありますし、丸1日かかることもありますので何とも申し上げられませんが、教授自身は、今日は長引くかも知れないと申しておりました。…どうなさいますか? お待ちになりますか?」
ザイコフはちらりと時計を見て、少し考えてから答えた。
「…では30分だけ待たせてもらうよ。それ以上かかる場合には、改めて出なおすことにしよう」
「承知いたしました。では、どうぞ、中でお掛けになってお待ち下さい」
秘書はそう言って教授の執務室を手で示すと、席をたって前室を出ていった。
ザイコフが執務室のひじ掛け椅子に腰をおろしてしばらくすると、ルカーチ・ユリアがお茶を運んできた。そして、いつも通りポットとカップをテーブルに並べ終えると執務室を出ていった。これですっかり普段のパターンに戻った…ように思われた。ところが彼女はすぐにドアを閉めることはせず、やがて大きな封筒をひとつ手に持ってザイコフのところに戻ってきた。
「これを先にお渡ししておきます。あなたが待たずにお帰りになるかも知れないからと、教授が私にことづけていきましたので」
差し出された封筒は3センチほどの厚みがあり、見た目よりも重さがあった。どうやらかなりの枚数の紙の束が入っているようだ。受け取った瞬間、ザイコフにはそれが何であるかの見当がついた。とたんに心臓がどきりと脈打ったが、それを顔には出さないように努めて平静を装いながら、彼女に尋ねた。
「ずいぶん厚みがあるね。何かの書類かな?」
「さあ…。私はうかがっておりません」
「預かってから、中を見なかったのかい?」
「あなたにお渡しするように言われただけですから」
ザイコフは彼女の様子を慎重に観察していたが、淡々とした返事からは何の動揺も見られなかった。
「…そうか。とにかく確かに受け取ったよ。ありがとう、ガスパディア・ルカーチ」
とりあえず彼女が中を覗いた可能性はないと見て、ザイコフはそれ以上の質問は控えた。聞きすぎるとかえって怪しまれるもとになる。
ザイコフに礼を言われて、秘書は軽く頭を下げた。それからすぐに立ち去ろうとしたのだが、ふと立ち止まって振り返り、ちょっと迷ってから、ためらいがちにこう言った。
「ガスパディーン。ひとつ申し上げてよろしいでしょうか」
「…どうぞ?」
「私の事はユリアと呼び捨てて下さって結構です。教授もそう呼ばれますし、イェレンコ三等書記官もそうしておられました。それに私自身、姓で呼ばれるのがあまり好きではありませんもので」
これにはさすがに驚いた。実に意外な申し出だった。いつも徹底して事務的な態度で接していながら、いきなり名で呼んで欲しいというのも驚きだったが、何よりもこの女性の口から「好きではない」などという言葉が飛び出してくるとは思わなかった。
ザイコフは思わず目を丸くして、しげしげと彼女の顔を眺めてしまった。すると彼女の顔つきが、普段と様子が違うのに気がついた。相変わらず無表情ではあるが、よくよく見ると、目がきまり悪そうに宙を泳いでいる。彼女にしては珍しいな、とザイコフは思った。この秘書の意外な言葉を聞き、普段にない様子を眺めるうちに、ザイコフの顔に次第に笑みが広がった。何だか面白くなってきた。
「いいよ。ではそうしよう。その代わりと言ってはなんだが、君も堅苦しい『ガスパディーン』というのをやめる気はないか?」
「では、何とお呼びすればいいのでしょう?」ユリアは真面目に聞き返してきた。
「私の名はアレクサンドルだ。なんならサーシャでいい」
ザイコフがそう言って茶目っ気たっぷりに片目をつぶって見せると、ユリアは今度はかすかに眉根をよせて、困惑したような顔になった。彼女の顔に表情らしきものが現れたのを見るのは初めてだ。
「…それは少々お呼びしづらいのですが…」
「どうして?」
「私は人をファーストネームで呼んだことがありませんので、慣れなくて…」
たかが名前を呼ぶぐらい、そう難しく考えることはないだろうに。ユリアがあまり生真面目に答えるので、少しからかってみたくなった。
「では、これを機会に慣れたらいい。ちょっと呼んでみたまえ。練習だよ」
ザイコフは笑いながら言った。半分は冗談のつもりだったから、もちろん強要する気はなかった。ところが…。
いきなりユリアは耳まで赤くなった。もともと色が白いから、本当に真っ赤になった。その顔を両手で被うと、ユリアは黙ってうつむいてしまった。
ぎょっとしたのはザイコフの方だ。突然泣き出したのかと思って心底あわてた。徹底的な無表情が崩れるのを期待してはいたが、これではあまりに極端だ。落差が大きすぎて対応できない。
「私はそんなにとんでもない事を言ったかな…?」
しどろもどろになってザイコフは尋ねた。
「…どうしても、そうお呼びしなくてはいけませんか?」
ユリアが蚊の鳴くような声で言うのが聞こえた。どうやら泣き出したわけではないようだった。
「これまで通りでお許しいただきたいのですが」
「…別に何でもいいよ。君が呼びやすいように呼びたまえ」
からかう気など完全に消え失せていた。とにかく早く収拾をつけたくて、ザイコフはそう答えた。
「ありがとうございます。動揺してすみませんでした」
ユリアはまだ赤面が収まらないようだったが、それでも少しずつ落ち着きを取り戻してきたらしく、軽く一礼すると、くるりと向きをかえて執務室から出て行き、いつものようにドアを閉めた。
ああ、驚いた。ユリアが出ていってしまってから、ザイコフは口の中だけで小さくつぶやいた。本当に驚いた。頭の中がすっかり真っ白になっている。たしか何か重要なことを考えていたのだが、何だったかな…?
少し気を落ち着けようと、ザイコフは椅子の背にもたれて足を組んだ。その途端、テーブルの端に乗っていた封筒が膝にあたって床に落ちた。そうだ、これのことだ。前かがみになって手を伸ばし、ゆっくりと封筒を拾い上げた。きちんとドアが閉まっていることを目で確認してから、静かに封筒を開いて中を改める。出てきたのは彼が予想した通り、ハンガリー内閣の閣議の議事録の写しだった。