マトリョーシカ
こうまで言われてはザイコフも引き下がるしかなかった。凡庸で品格に欠ける男ではあっても、上司は上司、ベテランはベテランである。ひきかえ自分は、まだ何の経験も実績もない駆け出しだ。悔しいが、それが客観的事実だった。
結局ザイコフは、2年前の身辺調査報告書を閲覧する許可だけで満足せざるを得なかった。
報告書に記されたユリアの経歴は、次のようなものだった。
1935年センテンドレ生まれ。初等学校8年(大戦による中断があるので実質7年)、中等学校は飛び級して3年で終了、17歳でエルヴィン・サボー図書館の職員試験に合格し、ブダペストでひとりの生活を始めた。20歳からは経済大学職員として大学の図書館に勤務、1年後の1956年に教授の秘書に異動。政治・思想活動の経歴なし。親しい友人なし。恋人なし。両親はセンテンドレ在住。父親は荷役夫、母親は市場で働いており、ともに反体制思想の徴候なし。ユリアがブダペストで生活を始めて以来、この両親の元を訪ねた記録も、両親(もしくはそのいずれか)がユリアを訪ねてきた記録もない。
どういう親にどんな風に育てられるとああなるのだろう? ザイコフはちらりと考えた。ユリアの両親というのが、どうにも想像できなかった。
経歴の後にはユリアの行動の監視記録が続いていたが、ほとんど自宅と大学を往復するだけで、最初の数週間こそ細かな報告がなされているものの、後半はまるでタイムカードみたいに、家を出た時刻と帰宅した時刻が並ぶだけになった。それらの最後に総括が入っていて、調査責任者が『仕掛け時計の人形のようだ』と締めくくっている。
報告書にひと通り目を通した限りでは、確かに参事官の言う通り、これといって注目すべき点は見あたらなかった。後半の記録はまったく無意味に思えたし、ユリアが現在もこのままの生活パターンをとっているとすれば、再調査しても無駄になるだけだろう。
だが、それはやってみなければ分からないはずだ。改めて調査しても同じ結果になるなどと、決めつけてしまって良いものだろうか?
そもそもOGPUの時代から、ソ連の秘密警察のやり方は慎重すぎるほど慎重だったはずだ。同じ事柄について複数の情報源から報告をとるのは当たり前。スターリンの人間不信によって極端化された面もあるだろうが、確実性を重んじるためには、このような重複を無駄と考えてはならない。情報官となるための教育の過程で、ザイコフはそう教えられてきた。にもかかわらず、参事官があれほど強固に再調査の必要性を否定するのは何故だろう?
なんとなく腑に落ちないものを感じながら、ザイコフはファイルを閉じた。
11月のある夜のことだった。その日の夕方からずっと、ザイコフは外務省の下級官吏の話につき合っていた。共産党の内部で西側諸国との親密な関係を回復したがっているグループの顔ぶれを探り出すのが目的だったが、それを聞き出すまでに同僚やら上司やら党の役員やらについてのグチや陰口にえんえんと耳を傾けるハメになって頭が痛くなった。まあ、そういう無駄話の中にも、いずれ何かの折に「説得」の材料として利用できそうなネタがひとつやふたつ含まれているから、それはそれで貴重な情報源ではあるのだが、酒が進むにつれて何度も同じ話を繰り返すので、愛想良く聞くフリをするには非常な忍耐が必要だった。
ようやく必要な話を全部聞き出して、相手から解放されたのは深夜0時に近かった。交通機関はすでに止まっていたが、大通りに出れば、まだタクシーを拾えるかも知れない。
南へ向かって少し歩くと、ヴァムハーツ通りにぶつかった。そこはちょうど経済大学の側面にあたり、道路を挟んだ右斜め前に見慣れた建物のシルエットが浮かび上がっていた。市街地と空港を結ぶ幹線道路なので、少しは交通量があるだろうと考えていたのだが、広々とした道路に走る車の影はなく、まばらな街灯が路面を寒々と照らしているだけだった。
やれやれ、仕方がないな。そう思ってあたりを見回した時だった。ザイコフは通りの向こう側を足早に歩いてゆく人影に気がついた。ほっそりとした背の高い女が、カルヴィン広場の方向へ歩き去ってゆく。ザイコフの位置からは後ろ姿しか見えなかったが、街灯の光に浮かび上がる銀色の髪は、まごうことなく例の教授秘書のものだった。こんな時間まで大学にいたのだろうか。ザイコフは訝しく思いながら通りを斜めに横切ると、彼女の数メートル手前で声をかけてみた。
「ユリアじゃないか?」
その声に女は足を止め、ぱっと振り返った。もともと白い顔が水銀灯の光のせいで蒼白に見えた。例によって無感動な顔をしてはいたが、それでも一瞬、わずかに眉が上がり目が丸く見開かれた(ような気がした)。注意して見れば、乏しいなりにも表情はある。急に背後から声をかけられて、少し驚いたようだ。いや、かなり驚いたと見るべきか。
「ああ、驚かせてすまなかった。後ろ姿を見かけたもので」
「こんな時間に教授にご用ですか? 残念ながら教授は、夕方にはお帰りになられました」
ルカーチ・ユリアは完全な無表情に戻って、事務的な口調でそう答えた。
「いや、今日はこの近くで用事を済ませて通りかかっただけだが…。では君は教授が帰った後も、こんな時間までひとりで仕事を?」
「今日中に片付けなくてはならない仕事がありましたので」
「…というと?」
「プレチュニク教授は明日、シンポジウムで講演なさるためにデブレツェンに出かけられます。その原稿をタイプしたり、持って行かれる資料を整えたり…。そんなことです。草稿をいただいたのが今日の夕方でしたし、資料を探すついでにファイルの整理などしていたら、少し遅くなってしまいました」
教授がデブレツェンに行くことは、ザイコフも承知していた。その国際シンポジウムには、東欧諸国やオーストリア、イタリアからも参加者が集まってくる。それらの国々に教授が放った教え子たちも、最新の報告を携えてやって来るのだ。そのシンポジウムの準備をしていたという彼女の話は、確かに筋が通る。もっとも彼女は、教授の講演が重要な使命の隠れみのだとは知らないだろうが。
「少しと言うには遅すぎるよ。もう交通機関も止まってしまっているが、帰れるのかい?」
本心から心配になってザイコフが尋ねると、彼女は相変わらずの無表情でそっけなく答えた。
「歩いても20分ほどですから」
「そうか。では気をつけて」
それ以上踏み込む必要もなさそうだったので、ザイコフは無関心を決め込むことにした。まあ、広くて見通しのいい通りだし、これだけ街灯がついていれば何事も起こるまい。
「おやすみなさい」
ユリアはそう言って踵を返した。
まっすぐ大通りを行くものと思いながら、ザイコフは彼女の後ろ姿を見送った。ところが、カルヴィン広場のロータリーをぐるりと回ったところでユリアの姿は大通りを逸れ、明かりもついていない裏通りへと入っていく。
ザイコフは驚いて後を追った。
「ちょっと待ちたまえ、ユリア! 君、この時間にヨージェフ地区を突っ切るつもりか?」
ユリアは再び足を止めると、くるりとこちらを振り返った。今度はまったくの無表情だった。
「この地区のアパートに住んでおりますから」