二次創作小説やBL小説が読める!投稿できる!二次小説投稿コミュニティ!

オリジナル小説 https://novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
二次創作小説投稿サイト「2.novelist.jp」

マトリョーシカ

INDEX|8ページ/25ページ|

次のページ前のページ
 

 やれやれ、とザイコフは思った。それならこの地区がどんな場所かは、自分より彼女自身がよく知っているだろうに。何故もっと人通りのあるうちに、仕事を切り上げようと考えないのか。何故「ついで」にファイルの整理なんかするんだろう。教授も無神経な男だが、ユリアの無頓着も相当なものだ。
「では、アパートの前まで送っていこう。どう考えても夜中に若い女性がひとりで歩く道ではないよ」
 そう言うとザイコフは、ユリアを促して歩き出そうとした。ところがユリアはその場に突っ立ったまま、こころもち上目づかいにザイコフの顔をじぃっと見つめていた。もしかするとロシア語がうまく聞き取れなかったのかも知れない。そこで同じセリフを、今度はマジャール語で繰り返してみた。
「…どこかに行かれる途中だったのでは?」
 ユリアはようやく口を開くと、きちんとしたロシア語で言った。どうやら聞き取れなかったわけではなさそうだ。
「用事を済ませて帰るところだ。タクシーでも拾えないかと思っていたが、歩く覚悟を決めたよ。どうせ東駅の方角だから、君を送りついでにヨージェフ地区を斜めに抜けることにする」
「かなりの距離ですよ」
「だが、歩いて歩けない距離でもないさ」
 ザイコフは微笑して見せた。
「…変わった方ですね、あなたは」
 ユリアはにこりともせず、またじぃっと覗き込むような目でザイコフの顔を眺めて言った。
 変わった方…? とザイコフは思った。いったい夜道を送っていこうというのが、そんなに変わったことだろうか?
「迷惑かな?」
 ザイコフが少し意地悪く尋ねると、ユリアは目線を足下に落として言った。
「いえ…。感謝します」
 うつむく瞬間、ユリアが今にも泣き出しそうな顔をしたように見えて、ザイコフはちょっと面喰らった。だがひとつまばたきをして見直すと、やはりユリアはまったくの無表情だった。目の錯覚か、とザイコフは思った。街灯の光の加減でそう見えただけだろう。
「では行こうか」
 二人は並んで暗い通りを歩き始めた。

 19世紀末、ブダペストはオーストリア・ハンガリー帝国の東の首都として絶頂期にあった。好景気にのって、東部の農村地帯から大量の労働者がこの街に押し寄せた。そうした人々の受け皿となったのが、ヨージェフ地区だった。集合住宅が次々と建設され、多くの人々が住み着き、街は活気に溢れかえった。だが、今世紀に入って景気が低迷しはじめた頃から少しずつ様相が変わり始めた。再開発の波に取り残されて建物は老朽化し、二度の大戦で住む人の数も激減した。そこに今度はジプシーたちが流れ込んできて、今ではかなり治安が悪化しているのだった。
 実際、道路はひび割れてあちこちで陥没しているし、建物の壁面も崩れたまま放置されていたりする。中には完全に廃虚になっているものもあり、ガラスの割れ落ちた窓が真っ暗な空洞を覗かせている。社会主義の理想の中に、厳然と存在する貧富の差。その最下層地区を、ザイコフたちは歩いているのだった。
 途中、安酒の臭いをさせながらヨタヨタと歩く中年の男とすれ違った。崩れ落ちた建物のがれきの中で数人の怪し気な男達が焚火をしながら、何をするでもなくたむろしていた。二人がその前を通りかかると、全員の目がユリアに向けられた。ひとりがひゅううっと口笛を吹いた。ひそひそと話声が聞こえ、やがてげらげらと品のない笑い声が起こった。路地の暗闇から滲み出すように二人組の男が現れ、何やら大声でわめきながら道路の反対側を平行して歩き始めた。マジャール語には違いないようだが、たぶんスラングなのだろう、外国人であるザイコフには正確な意味は分からなかった。それでも、ろくでもない内容であることは察しがつく。
 ユリアはと言えば、口笛にも淫靡な笑い声にも卑猥なわめき声にも一切反応せず、完璧な無表情の顔をまっすぐ前に向けて淡々と歩いていく。怯えているようには見えなかったが、バッグのひもを握り締めて肩をこわばらせている様子から、ひどく緊張しているのが分かった。
 二人組のわめき声は、まだついて来る。あまりのしつこさに、ザイコフは足を止めて向き直り、ぐいと睨みつけた。男たちが慌てて最寄りの路地に逃げ込んでいくのを見届ける間、ユリアは2〜3歩先で立ち止まってこちらを見ていた。そしてザイコフが追いついて隣に並ぶと、また黙って歩き出した。
「君ひとりだったら、と思うとゾッとするね」
 歩きながらザイコフが話しかけると、ユリアはまっすぐ前を向いたまま応えた。
「彼らは口先でからかうだけです。こちらが走り出せば、追いかけて来ることまではありません」
 ザイコフは驚いてユリアの顔を覗きこんだ。
「…つまり君は、今まで何度もこんな時間に歩いて帰っているのか?」
「時々…」
 驚くよりもあきれてしまって、ザイコフは大きく溜息をついた。
「ねえ君。仕事熱心も結構だが、こんな道をひとりで歩くぐらいなら、急ぐ必要のない仕事は翌日にして、もっと早い時間に切り上げるべきだ。今までは無事でも、今後もそうとは限らないよ」
 ユリアはちょっとこちらを見たが何も言わず、またすぐに前を向いた。
「いいね?」
 念を押しても返事はなかった。勝手にしろ、とザイコフは腹の中で怒鳴った。真剣に彼女の身を案じている自分がばからしく、腹立たしく思えてきた。考えてみれば、そんな心配をしてやる義理などないのだ。それなのに、どうして自分は彼女をかまっているのか。ユリアなど放り出して大通りへ戻ろうかと、ザイコフが本気で考え始めた頃になって、ふいにユリアが口を開いた。
「あなたは、私を人間扱いして下さるんですね」
「…人間扱い?」
 ザイコフは思わず聞き返した。
「他の人は私のことを人形だと思っています。人形がどうやって帰るかなんて、誰も心配しません」
 そういうことか。ザイコフはようやく理解した。彼女が自分を『変わった方』だと言う意味も、これで分かった。プレチュニク教授がユリアを『便利な機械』と言ったのを思い出した。感情がないから文句も言わない、妙な興味も持たない。言いつけた仕事だけを正確に機械的にこなすんだから便利だよ…。
 確かにユリアは表情に乏しかったし、色素の薄さや並外れて整った顔貌が造りもののような印象を助長していた。だが、ザイコフには人間を機械や人形と同じように扱うことはできなかったし、何故か彼女がそういう扱いに傷ついているような気がしてならなかった。
 たぶん彼女が赤面するのを見たせいだ、とザイコフは思った。彫刻のような無表情が崩れるのを、思いがけず目撃してしまったからだ。表に出ないだけで、彼女にも感情はちゃんとあるのだ。
「でも君は人形じゃない」
 先ほどの腹立たしさはもう消えていた。ザイコフは静かに言った。
「そして、生身の女性はこんな夜道を一人歩きしちゃいけない。周りはともかく、君自身が自覚すべきだ」
「そうですね…」
 ユリアは今度は素直に返事をした。声が少しかすれ気味だった。

 それから5分も歩いたろうか。ほどなくしてユリアが前方の建物のひとつを指差して言った。
「あのアパートです」
作品名:マトリョーシカ 作家名:Angie