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バウムクーヘンの正しい食べ方 (仮)

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 二人で話すには広すぎる会議室の扉を開ける。先に室内へ入った真壁は、椅子には腰掛けず、窓際まで歩みを進めた。長話にするつもりはないという意思表示なのだろう。
 そして、後ろを追う梶山へゆっくりと向き直る。

「上司に、報告があるんだけど」
「改まって、なんだ……?」
 壊れたブラインドから漏れた逆光が、口を開いた真壁の表情を隠した。

「私、結婚するの」
「は?」
 前置きなしで話された内容は、梶山にとってあまりにも衝撃的だった。
「結婚。……いや、再婚?」
「あ、ああ……」
 聞こえてはいたし、内容も理解できる。まったくの想定外でもないだろう。ただ、来るべき瞬間が今だったというだけだ。それでも、脳に浸透していくその言葉を受け止めるのは、容易なことではなかった。

「誰、と……?」
 やっとのことで絞り出した言葉が、梶山の声帯を震わせる。
 聞いたところで、その相手は梶山が知る由もない人間だろう。それでも聞かずにはいられないのは、上司としての責務なのか、その座を目指した男の遠吠えなのか。

「あの事件のあと、知り合った人」
 郷原さんの……と声を潜め、真壁は軽く目を伏せた。
「ああ、あの……」

 世間的には、現職の刑事部長が裏金汚職に関与していた非常にショッキングな事件として知られているが、真壁にとって、そして梶山にとっても、その事件は、もっと大きな意味を含んでいる。
 最愛の夫を、苦楽を共にした同僚を失い、そして、彼のために戦い抜いた事件だ。

 それまでの真壁は、子供たちのことを除くと、過去のためだけに生きていると言っても過言ではなかった。そのために警察に残っていると語ったということは、事件解決後、皆が知ることとなる。
 亡き夫の名誉を回復し、隠された真相を明らかにするため……あの日までの真壁を生かし、手を引いていたのは、ただ、それだけだった。

 一人で戦うにはあまりに細すぎる腕には、サイズの合わない時計を着けていた。夫の遺品であるそれは、真壁の時を支配し、縛りつける鎖のようにも見えた。
 事件が解決し、その時計を外した時……ようやく彼女は、自分の時を歩めるようになったのだろう。

 相手は、年齢も境遇もそう変わらない、妻に先立たれた男だと話した。子供はなく、一般企業に勤める管理職。
 きっと、目を引くような華やかさはなくとも、真面目で誠実、血の繋がらない子供たちにも愛情を傾けてくれる人なのだろう。温かい夕飯を食べながら、今日あったこと、明日することを話すのだろうか。
 真壁と、奈央と、則行と……そして、梶山は知らない男。明るいダイニングの電灯に照らされたその顔は、はっきりと思い描くことができず、うっすらとぼやけている。それでも、その顔がまっすぐで眩しい笑顔に包まれていることだけは、わかった。
 これまでの真壁を受け入れ、これからの真壁を支え、共に生きていく人だ。

「奈央も則も、喜んでくれた」
「そうか……よかったな。おめでとう」

 ーーあ、いや……管理官。上司に、報告があるんだけど。

 真壁は今の梶山に、管理官であってほしいと望んだ。梶山も、真壁がそう望むのなら、管理官としてこの場に立ち、話を聞き、部下の選択を喜んでやりたいと思った。

 その気持ちも、もちろん嘘ではない。
 けれども、少しだけ、許してほしい。上司ではない、梶山個人としての言葉もある。