君のためなら
「 ひとりぼっち 」
今日は少しだけ遅くなった。最後の最後で印刷機が壊れたせいで、調子をみるのに手間取ったのだ。今日は出会わないだろうな、そう思ってエレベータホールを出て部屋に向かう。角を曲がって、顔をあげると、居た。居た、というより、倒れていたというほうが正しいだろうか。ドアにもたれかかるようにして、しゃがみこんでいた。駆け寄って声を掛ける。息はしているようだけれど、反応がはっきりしない。とりあえず寝かせなくては。
鍵は、思った通りかかっていなかった。ドアを開けて、菊を抱えて入ろうとしたとき、身じろぎをして服を掴まれた。
「いや……」
目が覚めた。そして自分が眠っていたことを知る。見慣れた天井だから、自分の部屋だということも知る。外が明るみを帯びている。朝になりきっていないみたいだけれど、何時だろう。時計を確認するために身体を起こして、違和感に気がついた。服を、着ている。上着は脱いでいるみたい。けれどシャツもスカートもストッキングもそのままで、思えば顔も乾いてる気がする。一体どうして――
不思議に思ったところで、机の上のメモが目に入った。鍵を乗せて、重石代わりにしてある。
〈大丈夫か? すまない。勝手に鞄から鍵を探した。アーサー・カークランド〉
そう言えば、彼の名前を知らなかった。しかし名前の横に書いてある数字は、隣の部屋のものだから、この名前は、彼のものだろう。
迷惑を掛けてしまいました。お礼を、しなくてはいけませんね。
次の日、また帰宅が同じになった。二台のエレベータが同時に目的地に到着し、出たところでお互いを見とめた。
「あの、昨日はありがとございました。 カークランドさん、ですよね? 私、気を失ってしまったみたいで……。お礼がしたいです。あの、お茶でも飲んでいきませんか?」
「気にするな。仕事に出たんだな。もう調子はいいのか?」
「あ、はい。おかげさまで。しっかり睡眠を取れましたので」
「そか。じゃ、気をつけろよ」
「え、あの、あの」
どうしてもお礼をしなければいけないわけではない。けれど、するなら早いほうがいいし、家に誰かが来てくれる機会があるのなら、それは願ってもない話だった。そう思って、どうして誘えばいいかとまごついてると、少しぶっきらぼうな声が降ってきた。
「ど、どうしてもって言うんなら、行ってやらないこともないぞ」
来てもらえる。ほっとする気持ちが菊の胸を満たした。
通された部屋は、アーサーの部屋のように閑散とした無機質なものではなく、温かい生活感があった。パタパタと何かを用意しているようだからと、さり気無く部屋を見渡す。本があった。よくわからないきらびやかなイラストが表紙で、隅に赤いハートのワンポイントが描かれている。その中に18と書いてあった。それを見て、あらぬ妄想をしてしまい焦る。アーサー自身はともかく、男として知っているようなものではないだろうと思い直し、18巻だということにした。
「お茶ですが、紅茶でいいですか? それともコーヒーの方がお好きですか?」
妙なことを考えてしまったせいで、突然の声掛けにぎくりとする。
「あ、紅茶、の方が好きだ。……。なあ、紅茶なら俺、淹れるの自信あるんだ。だから淹れさせてほしい」
立ち上がって言う。キッチンへ、入ってもいいのかわからなかったから、返答を待った。
「そうなのですか。え、あれ? でもお礼なので」
「気にしなくていいって言っただろ。俺が淹れたい」
部屋に上がっておいて俺が言うのもなんだけど、菊は隙が多いように思う。よく知りもしない男を部屋に入れて、キッチンという狭い場所で二人で立つことを簡単に許可してしまうのだから。まあ、何もしないんだけど。
小さなやかんに水を入れてお湯が沸くのを待つ間、茶葉を出してもらい、量を計った。
「ミルク入れるか?」
「あ、はい。眠る前はミルクティにして飲むんです、私」
「わかった。小さい鍋使ってもいいか?」
鍋を手渡され、そこに牛乳を流し込んで火に掛ける。
手持ち無沙汰になった菊は、思いついたらしいことを言った。
「では、この間にお風呂でも沸かしてきますね」
何を言ってるんだ?
「…………すみません! あの、ひとりごとです! 癖なんです!」
「あ、ああ気にするな! 気にしてないから! 入れて来い!」
はいっと勢いよく返事をして、バタバタとキッチンを出て行った。
無意識だろうけれど、心臓によくない発言だった。
いただきますと紡いだ口に、そっとカップが添えられる。傾いて、まろやかな色になった茶色い液体が小さな唇に触れた。どうしてだろう。緊張、する。
どうだ?
気になって仕方がなく、訊ねようとしたとき、菊は表情を明るくして微笑んだ。
「わあ! カークランドさん! とっても美味しいですっ。家でこんな美味しい紅茶が飲めるなんて、嬉しい」
黒い瞳をキラキラさせて、手の中の紅茶とアーサーの顔を交互に見つめ賞賛する。
恥ずかしい、と思った。
「お、お代わりも、淹れてやるぞ」
「はいっ。ぜひお願いします」
屈託のない笑顔は、素直に可愛いと思った。思わず顔を背ける。頬に熱が集まってるのを、どうか気づかれませんように。
「そういえば、きちんと自己紹介してなかったですね」
「ああ、そう、だな」
「改めまして、私は本田菊と申します」
「アーサー・カークランドだ」
「はい、昨日は本当にありがとうございました」
「よくあるのか? ああいうこと」
「いえ。昨日は体調が良くなかったんです。ご迷惑をお掛けしてすみませんでした」
「いや、俺も勝手に入ったし、すまなかった」
「カークランドさんは謝らないでください。助けてくださったんですから」
ね? と小首を傾げられては、困る。
「あ、あのさ、この前のやつとはどういう関係なんだ?」
「え、と。アルフレッドさんのことでしょうか」
「だぶん、そい……その人」
「私の教え子だったんですよ。ずいぶん昔の話ですけど。大学生の頃の話ですから」
「先生でもやってたのか?」
「はい。アルバイトで、個人塾の講師をしていたのです。そのときの生徒さんなのです。中学生の頃は可愛いらしかったのですけど、本当大きくなりますね、男の子は」
あいつを思い出しているようで、おもしろくなかった。
「恋人がどうのこうのっていうのは、」
「それは! 本当に気にしないでください! 嬉しいことなのですが私のことを、どうも好いてくださってるみたいなんです。それであんなことを言うんですよ」
……他人の俺に、ただの隣人の俺に、敵意むき出しだったぞ? 本田、たぶんそいつ、本気だ。
「もったいないですよね。せっかくきれいなのに、学校に相応しい子がたくさんいるでしょうに」
……可哀相になってきた。
「学校? 学生なのか?」
「はい、彼は大学生です」
さくっと計算してみる。結果に驚きそうな気がする。
彼女が大学のときにあいつは中学生ということは、少なくとも四つは歳が離れてるんだよな。で、あいつが大学生の今、彼女は?
「俺、社会人一年目で、23なんだ、けど、……聞いてもいいか?」