終わらない夕暮れに
「そっか……大変だったんだなぁ、シュウヤ」
そう言って、彼はにこりと笑った。
広場では落ち着いて話ができないからといって、二人でやってきたのは薄明寺の境内だ。
本堂の裏手にあるベンチに並んで、ぼくはヘイキチさんと別れてから今日までの事を話して聞かせた。
一年前のあの日、気付いたら自分の部屋に戻っていた事。
イヅルの失踪事件は起こらず、今も同級生としてこの島で生活している事。
その代わりに、ヘイキチさんがいなくなり、誰一人、ヘイキチさんの事を知っている人がなくなってしまったこと。
自分が、イヅルと過ごした10年とヘイキチさんと過ごした10年の、両方の記憶を持っていること。
何から伝えればいいのかわからなくて、いったりきたり、要領の得ないぼくの話を、ヘイキチさんは何度も頷きながら黙って聞いてくれた。
そして、ぼくが話し終えて一息つくのを待ってから、彼は笑ってぼくの頭に触れ、子供を褒めるようにポンポンと軽く撫でた。
それは子供の頃からよく知っている彼の手で、ぼくは思わず泣きそうになった。
懐かしくて、優しくて。それなのに、初めてのような気もする。
少し複雑な感覚だ。
「でも、ごめんな」
ふいに、ため息混じりの声が聞こえた。
顔をあげると、ヘイキチさんは空いた手で自分の額を押さえて空を見上げていた。
「正直おれは……おまえにも忘れられたままでいてほしかったよ」
「?!」
空よりも高く、もっと遠くを見るようにしてから。
ヘイキチさんはゆっくりとぼくに向き直った。
「どうして今年のお前は、おれがわかるんだろうな」
「ヘイキチさん?……それ、どういう……」
嫌な予感がした。
ヘイキチさんの話しぶりは、まるでぼくが……ぼくが彼を……
「去年までのお前は、おれを知らなかったはずなのに、さ」
「!!」
頭を殴られたような、そんな衝撃だった。
ヘイキチさんがそんなふうに言うという事は、何年か前のぼくは、彼に対してそんな態度を取ったということなんだろう。
つまり……ぼくもヘイキチさんのことを、知らなかったんだ。
ぽつりぽつりと、ヘイキチさんは話してくれた。
イヅルを止めて過去を変えたあの日、目の前にいたぼくがいなくなった後。
ヘイキチさんは自分が消えるのを待っていた。
でも夕暮れが終わって夜になっても、朝がきても。
いくら待っても“その時”はこなかった……
ヘイキチさんはまた、過去の時間に取り残されてしまったんだ。
しかも今度は、イヅルが失踪していない。
イヅルが過去に飛ばされていなければ、ヘイキチさんは存在しない。
だから……
「すごいんだぜ。誰にもおれのことが見えてないんだ。女湯のぞいても何も言われないし、読経の最中に居眠りしても住職に怒られない!」
そう言って、ヘイキチさんが笑う。きらきらと目を輝かせて、一緒に遊んだあの頃と同じように。
だからこそ、聞きなれた軽口が重くぼくにのしかかる。
「でも、それじゃあヘイキチさんは……」
「おれはずっと、シュウヤたちを見守ってたよ。約束したろ?……けど、祭の日だけは違った」
「え?」
「祭の日だけは、みんなおれの事が見えるみたいなんだ」
以前のイヅルのように。
言いかけて飲み込んだ言葉が、ぼくには聞こえた。
ざあっと音を立てて風が通り過ぎる。空はさっきまでと変わらない明るい夕焼け色。赤く染まった風景の中、ヘイキチさんの明るい声だけが、少し翳った。
「まぁ誰もおれのこと知らなかったけどな。住職なんか“観光の方ですか”とか言いやがんだぜ、外向けの作り笑顔で」
「ぼ、ぼく……」
「ん?」
「ぼくも……その、ヘイキチさんのこと……」
ヘイキチさんは何も言わない。けど、それが答えだった。
「ご、ごめ……」
「いや、知らないのが普通なんだって」
「でも……ぼくが……ヘイキチさんのことを忘れるなんて……そんな……」
信じられなくて、思わず呟く。
何度も首を振るぼくに、ヘイキチさんは相変わらず優しかった。
優しくて、残酷だった。
「忘れたんじゃなくて、初めから知らないの。ヘイキチなんてやつは存在すらしてねえんだからさ」
「そんなこと……っ!」
「でも……」
ふっとヘイキチさんが笑った。目を細めて、懐かしそうに。
「そっか……お前が、あの時のシュウヤだったんだな」
「……」
なんと答えて良いのかわからなくて、ぼくは黙っていた。
たしかにぼくは、イヅルが失踪した事件を知っている。
たしかにぼくは、ヘイキチさんという人を知っている。
ヘイキチさんがいなくなってしまった理由も、知っている。
だけど、去年まで知らなかったぼくは、そこから続いている今のぼくは、本当にあのときのぼくのままなのだろうか。
答えを出せないでいるぼくに、ヘイキチさんはまた笑った。
「シュウヤ。おれは、おれの事を知っているシュウヤとまたこうして話せて、本当に嬉しいんだぜ?」
「ヘイキチさん」
にこりと笑う顔に、胸がぎゅぅっと苦しくなる。
そうだ、この顔だ。
ぼくが小さい頃から見てきた、お寺のヘイキチさんの笑顔。
知らないはずがない。
それなのに……
「おれは嬉しいけどな……いない人間を知っているなんて、シュウヤにとっていいことなんか何もないだろ」
それなのに、ヘイキチさんは自分は存在していないだなんて言う。
「だから忘れるんだ。あの日、イヅルは禁じられた祠に入ってなんかいない。失踪もしていない。薄明寺は昔っから住職が一人で切り盛りしていて……出自のわからない、不出来な息子なんていやしないんだ」
ヘイキチさんは、自分のことを忘れろと言う。
「イヅルの失踪がなくなって、かくれんぼはお前の大勝利だったのに、十年も待たせたんだろ?サツキのこと、ちゃんと幸せにしてやってくれよ」
ヘイキチさんは、自分以外の人間と幸せになれと言う。
(……そんなの、勝手すぎるよ…………)
何から言っていいのかわからなくて、膝の上で作った握りこぶしを固くする。
うつむいたままのぼくの頭より高い位置で、ヘイキチさんが笑うのがわかった。
「お前と話せてよかった。ありがとうな」
ぽんぽんと二回、ぼくの頭を撫でてからヘイキチさんが立ち上がった。ざくっと足元の砂利が鳴って、彼の爪先がぼくとは反対の方を向く。
(こんな勝手な話……ぼくの記憶は、ヘイキチさんとの思い出は…………)
「……じゃあな」
もう一度、頭に大きな手が置かれた。指をくぐらせて、ぎゅっと押さえて、少し左右に振って髪を乱してから離れていく。
この動きだって、ぼくは知っている。
昔から、ぼくを励ましたり元気づけたり慰めたりしてくれた時の、ヘイキチさんの癖じゃないか。
それなのに、そのすべてがなかったなんて……だから忘れろだなんて……
(そんなこと、できるわけがない!)
「ヘイキチさん!」
ぼくは叫んで立ち上がった。でもヘイキチさんは答えない。
背中を向けたままひらひらと手を振るだけだ。
その足は止まらない。
「待ってよ!」
ぼくは追いかけて、ヘイキチさんの腕を掴んで回り込んだ。
「ヘイキチさん、あの時言ったよね?ぼくの気持ちもサツキの気持ちも大事にしろって」
「……なんの話だ?」
とぼけてる。視線を合わせようとしないヘイキチさんをみて、ぼくは確信した。