終わらない夕暮れに
どのくらいそうしていたのだろうか
とても長く感じたけれど、それほど長い時間ではなかったと思う。
ヘイキチさんは顔をおおったまま、小さく息を吐いた。
「……だから、忘れられたままでいいって言ったんだ」
「え?」
「シュウヤ」
小さな呟きを拾い損ねて訊ねると、ヘイキチさんはゆっくりと、ぼくに向き直った。
「ダメだよ。おれはダメだ」
ある意味予想通りの、声が聞こえた
でも負けない。ぼくは彼が教えてくれたように、自分の心を大事にするって決めたから。
だから聞き返す。
「どうして?」
「おれは、この世界に生きていない」
「でもここにいるよ」
「おれがこうして姿を持てるのは、祭の日だけなんだ。祭の日以外、おれは誰の目にも触れず、誰にもおれの声は届かない」
これも予想通りの答え。子供の姿のイヅルが目撃されていたのは祭の日だけだったから。
だから負けない。
たった一日でも、もう二度と会えないと思っていたこの一年を思えば、辛さなんて感じない。
「でも、祭の日には会えるし、話もできるんでしょう?」
「おまえがつらい時、相談にのることもできない」
「でもそばにいてくれてるんでしょう?」
「お前が嬉しい時、一緒に喜ぶこともできない」
「でも見守っていてくれているんでしょう?」
「お前が……」
「ヘイキチさんは、『これからもみんなを守り続け』てくれるんでしょう?」
「シュウヤ……」
「ぼくは、それで十分だから」
「……」
「欲を言えば、ほんの少しだけ他の人よりもぼくを見ていて欲しいけど」
「……シュウヤ」
「あと、祭の日はぼくと一緒に過ごしてほしい」
「シュウヤ」
「……だめ、かな?」
問いかけながら考える。
もしここでダメだと言われたら。
その時はどうしようか。
ぼくとしては、最大限自分の気持ちを大事にした結果だし、今まで口にしたことがないくらいのわがままを言ったと思う。
だから、ここでだめだと言われたら、これ以上何をすればいいのかわからない。
わからないから、また考える。
だって。
ぼくは絶対に
ヘイキチさんを諦めるつもりはなかったから。
そんなふうに考えていたら、ふっと、ヘイキチさんの体に張りつめていたものが消えた。
(……今、笑った?)
一瞬だけ見えた表情にぼくが固まっていると、ヘイキチさんは小さく首を振った。
「……ったく、お前は本当にすごいな」
「え?」
「負けだよ負け。おれの負け。……それでいいだろ」
「負けって……なんの話、うわっ」
強く腕を引かれて上半身が傾ぐ。
逆らいようのない力に一瞬身体が固くなるが、すぐにふわりとしたあたたかさに包まれた。
少し固い、藍色の生地が頬に当たる。目の前にある人の肌がなにを意味するのか、考える前にそれが動いた。
「どんないい女に言い寄られてもなびかないことで有名なヘイキっつぁんを口説きおとすなんて、お前が初めてだよ」
耳からだけでなく、触れている所すべてからヘイキチさんの声が響いて聞こえて、今の自分の状況を知る。
「聞いてるのかー、シュウヤ?」
ぼくの様子を確認するかのように、ぼくの背中に回されたヘイキチさんの腕が力を増す。痛みも苦しさもない、ヘイキチさんらしい優しい拘束に、ぼくも彼の背に手をの伸ばした。しっかりと服を掴み、しがみつくように体を寄せる。
「聞いてるよ…ヘイキチさんを口説こうとしていた美人がいたなんて知らなかった」
「うるせえよ」
「ふふっ」
ふてくされたような口調は、耳慣れたヘイキチさんのものとは少し違っていた。
近所のお寺の息子としてのヘイキチさんは、子供のぼくたちと同じ目線で遊んでくれたけど、子供のぼくたちと同じ目線で言い合いはしてくれなかった。
年の離れた兄貴分のヘイキチさんがこんな……子供じみたこと言うなんて。
彼の素に触れたような気がしてうれしかった。
「……だから、お前が始めてだって」
「ん?何?」
ぴったりとくっついている距離でも聞き取れなかった声を拾おうと顔をあげると、驚くほど近くにヘイキチさんの顔があった。至近距離で目が合い、揃って息をのんで固まる。
「っ、なんでもねえよ!」
先に視線をそらしたのはヘイキチさん。怒ったように声を荒げて、ぷいっと横を向く。
夕日のせいか、ヘイキチさんの顔が少し赤く染まって見える。
ぼくを抱きしめる腕の力が少しだけ強くなって、そしてふいに――
弱くなった。
「?……ヘイキチさん?」
「……はは、時間、だな」
「!!」
驚いて見上げたヘイキチさんの顔がうっすら霞んで見える。
祭りが……終わらない夕暮れが……終わる。終わってしまう。
ぼくはあわてて立ち上がり、ヘイキチさんと向かい合った。
「まだ行かないで、ヘイキチさん」
自分ではわからないけれど、ぼくは相当必死な顔をしていたらしい。ヘイキチさんは一瞬だけ辛そうな顔をして、それから眉を下げて笑う。
「……な?やっぱり辛いだろ?おれとお前は同じ世界には―」
「そうじゃなくて!」
「?」
何を言っているんだというぼくを、何を言われているのかわからないヘイキチさんが、きょとんとした顔で見上げてくる。
その表情も、どんどん滲んで薄れていくから、ぼくは焦っていた。
「ぼく、まだヘイキチさんの気持ちを聞いてない」
「!!」
はっとしたように、ヘイキチさんの顔色が変わる。赤くなったり青くなったり、透き通ったり。ぼくたちに残された時間がわずかなのだと突きつけてくる。
時間がない。だけど、伝えたい。
「ぼくは、ヘイキチさんがすき」
「シュウヤ……」
「ヘイキチさんは?ヘイキチさんは、ぼくのこと……」
時間はもうない。だけど、これだけは聞きたい。
そんな必死なぼくにヘイキチさんは眉を寄せて笑った。
「みんながみんな、お前みたいに好き好きいえるわけじゃねんだよ。おれだって……」
「……そう、だね……」
ヘイキチさんの顔を見て、ぼくが彼を困らせているんだなって。そう思った。
彼の言葉に迷惑は見えない。それはわかる。
だけど、照れ隠しの向こうには僕への遠慮があるように感じていた。
ヘイキチさんの言葉を借りれば、住む世界が違う僕に対する、たぶん彼なりの優しさなんだと思う。
これ以上は望んではいけないのかもしれない。ヘイキチさんの事を忘れた方がぼくのためだと言ったヘイキチさんに、ぼくの気持ちを受け入れてもらった。それだけで、十分なんだ。
そう思った時。
「……シュウヤ」
「ん?っ……」
名を呼ばれ、考えを止めて顔を上げる。そこに、ヘイキチさんの顔があった。
さっきよりもだいぶ近い、今まで見たことないの距離にヘイキチさんの顔がある。
そして、ふっと。
息が、触れた。
ふわふわとして正体のわからない、けれど確かに温かく熱をもった何かが、唇にぴたりと、かさなった。
ぱちりと瞬く先で、ヘイキチさんが目を細めて笑った。
「おれだって、お前が好きだよ」
「!!」
「また来年会おうな、シュウヤ。男同士の約束だ」
ゆらり、ヘイキチさんの姿が朧に揺れる。
後ろの石灯籠が透けて見えるほど、ヘイキチさんの体はうすぼんやりとしていたけれど、ぼくは頷いてもう一度唇を重ねた。
さっきよりも不確かな感覚が、さっきよりも確かに感じられる。
そう、思った。