サヨナラの挨拶をして
コロッケを食い終わった少年は、ソースに汚れた指を舐めて、今度は断りもなくビールに手を伸ばした。
「あ」
「ごちそーさん」
ちゃぷん、と、まだ中身の入った缶が音を立てる。
「何勝手に飲んでるんだよ。大体お前未成年だろーが」
少年は「ははは」と笑うと、ベンチから立ち上がり、オレの前にしゃがんだ。
「な、なんだよ。これ以上は何にもやんねーぞ」
「あんた、名前は?」
警戒するオレに、少年は小首を傾げて聞いてくる。
「……なんだよ。何で名前なんか……」
「オレは、赤木しげる。あんたは?」
名前を聞くんなら自分から名乗れよ、というまでもなく、少年は自分の名を名乗り、再び問いかけてくる。
答える義理なんざどこにもないが、名乗らないのもおかしい気がして、オレは渋々答えてやった。
「伊藤開司」
「カイジさん、あんたいい人だね」
くっくっく、と赤木しげるは笑い声を上げて立ち上がり、それからくるりと背を向けた。
「よければ、またここで会おうよ」
そう言って約束もしないのに、立ち去ってしまう。
オレはなんだか狐につままれたような気がして、それから飯を食い終わったのは、ビールの気がすっかり抜けちまって、なんだか生温いばっかりの水になる頃だった。
部屋に戻ると、隣はもう寝たのか、それともどっかに行ったのか、しんと静まり返っていた。
◇ ◇ ◇
翌日、バイトもなかったオレは、まだ日の高いうちにあの公園に足を運んだ。
小さな公園ではあるが、昼間だからか、赤ん坊を抱えた女と、きゃあきゃあ騒ぐ幼児がいた。女が二人いるから、おそらくは親子が二組いるのだろう。
目に入る風景はのどかで平穏で、昨日見た少年のような怪異じみた存在がいるのには似つかわしくなかった。
昨日オレが見たのは白昼夢だったのかもしれない、と結論付ける。
さて、このままここに突っ立っていたら、不審者として通報されちまうかもしれん。
全く世知辛い世の中になったもんだ。
オレは赤木しげるがいなかったことにほっと安堵の息をついて、その場を立ち去ろうとした。
しかし、それがままならなかったのは、踵を返したすぐ先に昨日の少年がいたからだ。
「よう」
「おう」
まるで旧知の知己のごとく軽い挨拶をされて、渋々オレも顎をしゃくってやる。
少年は年相応にアイスキャンディーなんぞを咥え、そこに存在していた。
「……美味そうなもの食ってんな」
世間話代わりに振ってやると、赤木しげるはアイスキャンディーをこちらに向けて「喰う?」と首を傾げた。
「いや、いいよ。遠慮しておく」
「そうかい」
しゃく、しゃく、と、細かな飛沫を散らしながら、涼し気な氷菓子は少年の口の中に納まっていく。
見ればこめかみのあたりから汗が滴っているのがなんだか不思議な気がした。
そういう人間的な生理は、こいつには似つかわしくないように感じられた。
何を馬鹿なことを。
首を軽く振って馬鹿な妄想を追い出す。
「お前、セーガクじゃねーのかよ。学校はどうした」
「そっちこそ、仕事は? 平日の昼日中から散歩とはいいご身分だな」
軽くジャブを放てば、返す刀でバッサリ切られて顔を顰めた。
「……オレのことはどうでもいいんだよ。世の中、カレンダー通りの仕事ばっかじゃないんだから」
適当に誤魔化すと、赤木しげるは軽く眉を上げて「そ」と返してきた。
「オレのことはいいじゃない。それに世間じゃ今は夏休みって奴だと思うぜ」
「……あぁ」
学校を卒業して、その日暮らしの浮き草みてーな生活を続けていれば、世の中には疎くなる。
今更、今が夏だと気づいて、なんだか空しくなった。
働きながら予備校へ通うと言って上京して、二年とそろそろ半年。
結局、金ばかりかかる予備校には入らず、学校が斡旋してくれた会社も二か月足らずで辞めてしまった。
今はバイトを転々としながら、日がな一日惰眠を貪るばかりの日々だ。
こんなことじゃいけないと買いこんだダンベルだって、すっかり部屋の隅で埃をかぶっている。
赤木しげるは食べ終えたアイスの棒をゴミ箱に放り込むと、オレの方を向いた。
「ねえ、兄さん。まだちいと日は高いけど、今日の夜オレに付き合っちゃくれないか?」
「あ?」
いきなりの要請に戸惑っていると、赤木しげるはしたり顔で顎を撫でる。
「それと、もうちっとマシな服は……持ってねえだろうな。よし、そんじゃ来な」
「え? は? あぁ?」
すたすたと歩き始めた赤木しげるについていく義理はないはずだが、迷いのない足取りに置いていかれてはならない気がして、オレは慌てて後を追った。
連れていかれた先は、オレの家に勝るとも劣らない安アパートで、ほとんど目立つ家具もないのに、あちらこちらにゴミが放りっぱなしで汚い。
「……うぇ、オレこういうのダメなんだよ」
この部屋絶対黒いのとか出るだろ。なんで食い終わったカップ麺をそのまま放置しておけるのか、その神経を疑う。
部屋の主は剃り残しの目立つおっさんらしい。
おっさんはオレを見るなり「これかぁ、うーん……」と失礼なことをほざいて、口元に手を当てた。
なんだよ、おっさんにこれ呼ばわりされる覚えはねーぞ。
「いやぁ、赤木。これはよ、ちっと厳しかないか?」
「そうかい?」
けなされているのだろうが、何を言われているのかさっぱりわからず、小さくなって座っていれば、ばさばさと樟脳臭い服を出された。
「こいつはオレが若い頃のもんだ。もう着られるようにはならんだろうから、お前にやるよ」
「はぁ」
何で突然御下がりをくれるって話になってるんだ?
訳が分からないまま曖昧に相槌を打つ。
「まぁ、入らないってことはないだろうが、着てみろ」
「は、はぁ……」
プンと田舎の婆さんみたいな匂いがする服に袖を通すのは気が引けたが、断る理由もなくて、出されたスーツ一揃いに着込む。
よっぽど若い頃のものなのか、目の前のおっさんじゃ確かに入らないだろうってぐらいには細身だが、それでもオレにはだいぶデカい。
「ぶかぶか……」
「んー……それはベルトでも締めておけば何とかなるが、少し丈が足りないか……いや、このぐらいなら、まぁ……」
おっさんは唸りつつ、さらにくっさいポマードを出してきた。
「う、うえ……な、なんスか……」
「いや、ガキならともかく、いい年した野郎がそのぼさぼさのまんまってわけには行かないだろうが。ほんとならすっきり切っちまいたいとこなんだがなぁ」
断る暇もなく、べたっと髪に整髪料を付けられ、手櫛で後ろに髪を流される。
「くっせえ」
顔を顰めているオレにかまわず、おっさんは距離を取って、んーと難しい顔をした。
「……ま、これなら何とか……オレが行けりゃよかったんだけどな」
「安岡さんのツラ、割れてるんでしょ。なら仕方がないじゃない。それに、オレの父親名乗るにしても、あんたじゃ少し薹が立ちすぎてら」
ここに来て、赤木しげるが口を挟んだ。
「ま、そうなんだが……んー……あ、いや、父親ならいけるだろ」
どうでもいいことが引っかかったらしく、安岡、さん? が、赤木しげるの方を見て反論する。
作品名:サヨナラの挨拶をして 作家名:千夏