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サヨナラの挨拶をして

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「ツラが割れてる……? おいおい、ヤバいことをやらせようってんじゃないだろうな」
 なるべく舐められないようにしかめっ面で問いかければ、安岡とやらは「あー」と呟いて後頭部を掻いて空に目を向ける。
「その……なんだ、お前逃げ足には自信はあるか?」
「は、はぁ?」
 初めから逃げ足を織り込むってことは、逃げなきゃならないような事態に陥る可能性が高いってことだろう。
 やばい話は御免だと、警戒心を強めていると、赤木しげるがぽんぽんと宥めるようにオレの腕を叩いた。
「頼りにしてるぜ、カイジさん」
 にたぁ、と弧を描いた口も目も、なんだか傷口みたいで、目を逸らしたくなる。
 得体のしれないものが、その奥の闇からどろりと溶け落ちそうだ。
 なんだって、こんなガキにそんなことを思うのだろう。
「オレのことはしげると呼びなよ。その方が親子っぽいだろ?」
「だ……」
 誰もまだ受けるとは言ってねえ。そう言おうと思ったのに、十枚はあろうかという紙幣が、胸ポケットに押し込まれた。
「こいつは手付だ。あんたはオレの後で立っときゃいい」
 後ろに立っておけばいいなんて、ガキの子守かボディガードだろうか。
 しかし、十万は安くねえ。
 手付で十万なら報酬は一体……。
「逃げ足ったって、流石にこんなデカいガキ抱えて逃げる自信はねえぜ……?」
 念のために確認してみると「その心配には及ばねえよ」と、しげるは鼻で笑ってオレの胸を叩いて見せた。


   ◇ ◇ ◇


 呆れたことに、都内のど真ん中と言ってもいいとこにそれはあった。
 繁華街にポツンとある料亭みてーに瀟洒な日本家屋の奥、突然世界が違ったみたいに毒々しい赤の絨毯が引かれ、さらに扉をくぐると喧騒があふれ出した。
「ひぇっ……」
 小さく声が漏れた。しげるはくすりと鼻先で笑ってみせる。
「堂々としていなよ」
 小さな体で気負いもなさそうに歩き出した背中を慌てて追う。
 気を抜いたら白いシャツは、この狂乱の中ではあっという間に見失ってしまいそうだった。
 連れてこられたのは、秘密カジノだ。
 映画の中で見たカジノみたいに、キラキラしいシャンデリアが天井からぶら下がり、肩と背中をあらわにしたドレスをまとった女がそちらこちらにいる。
 燕尾服に何かが入った籠やら、ドリンクの乗ったトレーを携えたウエイターが、人波を優雅に泳ぎまわり会釈する。
 まるで異世界だな、こりゃ。
 極彩色のセロファンで彩られたみたいな、ある種異様な雰囲気にオレはすっかり飲まれちまって、小さくなるしかない。
 なんだって、こんなガキがこんなところに来慣れてやがるんだ?
「さて、遊ばせてもらおうか」
 しげるが選んだのは、バカラだった。
 それからのしげるはと言えば、連戦連勝だ。
 いや、連戦連勝と言い切ってしまうのは語弊があるかもしれない。
 負けはする。負けはするが、必ずその負け分を取り返すのだ。
 バカラと言ってもミニバカラ、という奴らしく、最低ベットはそれほどデカくない。しかし、神懸ったツキ、というには少し空恐ろしいような勝ちっぷりで、次第にしげるの周囲には人が集まってきた。
 勝ちにあやかろうというもの、そもそも賭けに乗っかろうというもの、ギラギラと生臭い連中の中にあって、しげる本人はと言えば、涼しいと言ってしまうにはあまりに冷たい眼差しのままテーブルに目を向けている。
 しげるの細い指が、ひときわ色の濃い帯の上にチップを積み上げた。
 プレイヤーとバンカーの引き分けに賭けるそれは、八倍という大きな配当をもたらす。
 あまりにも無謀だと、誰しもが思ったことだろう。
 所詮は子供だと、集まってきた野次馬の誰かが嘲った。
 オレだって、無謀だと思ったし、せっかくここまで勝ちを積み上げたのにと、引き留めたくなった。
 けれど、そこに感じた気配に、オレはしげるに向かって伸ばしかけた手を引っ込める。
 どっどっと内側から胸を叩く鼓動に、眩暈がする。
 確信があったわけじゃない。
 それが勝ちでも負けでも、その先に行きついた結果を見たいと思ってしまったのだ。
 ディーラーが最後のカードをめくった瞬間、ほう、とため息が漏れた。
 結果はしげるの勝ちだった。
 しげるが振り返り、口だけを笑みの形に歪めてみせる。
 オレはと言えば、ぷつぷつと毛穴から汗が噴き出して、つっと滴っていくのを、ビリビリと肌が感じるままに立ち尽くしていた。
「失礼しますミスター」
 背後から声がかけられ、そちらを向くと、いかにも胡散臭い笑顔を張り付けた男が傍に立っていた。
「お連れ様には本日、素晴らしい勝負を見せていただきました。いかがですか。当店特別なお客様には、特別なお部屋をご用意しております。そちらでもう一勝負、というのは」
 来た。
 オレは姿勢を正す。
 安岡っておっさんからあらかじめ聞いていた話の通りだ。
 このカジノにはVIPルームがあって、大きな勝負はそちらで行われる。
 声を掛けられた時点で、王手に手が届く。
 けれど、ぞわり、と嫌な予感が背筋を走った。
 首の後ろっ側がちりちりとするみたいな、上手くは言えないが、どうにもよくないものが待ち構えていそうな気配だ。
「いや、今日はここまでにしておこう。何せ子供はもう寝る時間でね。行こう、しげる」
 しげるの肩を掴み、立つように促すと、しげるは眉を跳ね上げてオレを見る。
「……なんで? ボク、その特別な部屋ってヤツ見てみたいな」
 先ほどまでの博徒面はどこへやら、あどけない表情で小首を傾げるしげるは、実際の歳よりも幼く見えるくらいだ。
「いい加減にしろ。今日はもう十分遊んだだろう?」
 しげるを叱る素振りをしつつ視界の隅で確認すれば、声をかけてきた男は誰かとコンタクトを取っている。
「……こいつら、どうも勝負する気はなさそうだぞ」
 小声で確認すればしげるは小さく肩を竦めた。
「だね。後ろ、二時の方角、何か仕掛けてくるよ」
 しげるに軽く突き飛ばされ、タタラを踏む。その一瞬後に、通りがかったウエイターのトレーに乗っていたグラスが爆発した。
 いや、何かが当たってぶち割れたのだ。
「マジかよっ!」
 確認する間も惜しんで、オレとしげるは手筈通りに駆け出した。
 何事が起きたのか驚愕している人々の間をすり抜け、外へと駆け出す。
「追え!」
 背後からかかった声が、立ち止まったらヤバいと教えてくれる。
「グラスが砕けたの、ありゃ銃か!?」
「いや、銃ならもっと派手に砕ける。アレは吹き矢か何かだろ。近距離ならその方が正確だし、薬を仕込むこともできる」
 このカジノがある場所は、都内の、それも繁華街にほど近い屋敷の中だ。
 誰もこんなところにカジノがあるとは思わないだろう。
 そしてその地理は、屋敷内からさえ逃げ出してしまえば、そう簡単には捕まらない。
 予定と違う事態に陥ったら逃げ出すルートは事前に確認していて、そこには安岡が待機していることになっていた。
 ――ところが、何があったのか、屋敷から逃げ出し落ちあうはずの場所に、安岡の車はなかった。
「……っち、何してやがんだあのおっさん」
 きょろきょろとあたりを見回すが、それらしき姿は影も形も見当たらない。
作品名:サヨナラの挨拶をして 作家名:千夏