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黄金の秋 - Final Episode 1 -

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 チェックメイトまであと3手というところまで追いつめられて、ニコライ・ペトロヴィチは長考に入っていた。
 彼は学生時代にコムソモールの活動で知り合って以来の友人であり、サーシャが今でも親交を続ける数少ないひとりである。MGIMOを卒業して外務省に入省したニコライ・ペトロヴィチは、早々にエリート街道を踏み外したサーシャとは違い、順当にキャリアを積んで昇進を重ね、最後には外務次官の地位にまで登りつめた。サーシャより二つ年長で、すでに退職して7〜8年になるのだが、引退後もオブザーバーとして意見を求められることも多く、今も運転手付きの高級車を乗り回す有力者だ。
 だが、その地位を鼻にかけて他人を見下すようなところはなく、サーシャに対しても学生時代と変わらぬ態度で接している。またサーシャの方も、頭が良く、視野も広く、温厚な性格のニコライ・ペトロヴィチには常に敬意を持って接していた。だからこそ、長く交際を続けてこられたと言えるだろう。
 とはいえ、勝負となれば話は別である。次の手を待ちながらノーヴァヤ・イズヴェスチヤを広げていたサーシャは、とうとう降参を促すべく彼に声をかけた。
「さて、そろそろ時間切れということにしませんか?」
「待ちたまえ。もう少し考えたい」
 チェス盤をにらんだままでニコライ・ペトロヴィチは答えた。
「やれやれ。何なら2手延命する方法を教えましょうか? 結果は変わりませんがね」
「……なかなか意地が悪いな君も」
「勝負は勝負ですからね。シビアにいきましょう」
 サーシャは新聞をたたみながら、にっこりと微笑んだ。と、その時、隣の寝室から電話のベルの音が聞こえてきた。ニコライ・ペトロヴィチが驚いたように顔をあげた。
「この家に電話があったのかね?」
「一応ね」
 サーシャはゆっくりと腰を上げながら言った。
「私は必要ないと思ったんだが、ミーシャが電話だけは絶対に引いておけと言うのでね。まあ、めったに使うことはありませんが」
 言いながらサーシャは隣室のドアを開け、そこで振り返って付け加えた。
「ペトロヴィチ。私がこの電話を終えたら時間切れですよ」
「じゃあ、ゆっくり話して来たまえ」
 ニコライ・ペトロヴィチがそう言うと、サーシャは笑いながらウィンクしてドアを閉めた。

 誰からの電話かは見当がついていた。なにしろここの番号を知らせた相手はひとりしかいないのだ。それにしても電話をかけてくるとは珍しい。何か面白いことでもあったのかな? そう思いながら受話器を取った瞬間、ほとんど悲鳴に近い女の声が聞こえてきた。
「おじさま!?」
 サーシャは一瞬、間違い電話かと思って眉をひそめた。だが…
「おじさま! サーシャおじさま! 聞こえてる!?」
 自分の名を呼ばれて、ようやくその声の主に思い当たった。その途端、奇妙な胸騒ぎを覚えた。
「聞こえてるよ」
 サーシャは努めて落ち着いた声で言った。
「アーニャかね? いったい何が……」
「おじさま、早く来て! パパが………お願い、早く!!」

 隣室のドアが開くのを見て、ニコライ・ペトロヴィチはついに考えるのをあきらめた。どれだけ考えてみても、もはや勝ちはなさそうだ。口惜しいが、降参だ、と言おうとした。ところが、サーシャはすでにゲームのことなど失念している様子で、出て来るなりこう言った。
「ペトロヴィチ、ここへは車で来ていますね?」
「ああ、そうだが…」
 唐突な質問にペトロヴィチは戸惑ったが、サーシャは真剣な顔をしている。どうやら今の電話は緊急事態を告げるものだったらしい。そう察しをつけてペトロヴィチは言葉を継いだ。
「どこへ行きたいんだね?」
「モスクワへ」
「それはお安い御用だよ。私はそちらへ帰るんだ。運転手に5時に迎えに来るように言ってあるから、あと30分もすれば…」
「できれば今すぐ出たい。連絡はとれませんか?」
「ふむ、では少し待ちたまえ」
 こういう時のニコライ・ペトロヴィチの考え方は相変わらず合理的だった。一刻を争うほど急ぐ時に、いちいち説明を求めて時間を無駄にすることがない。質問よりも行動を優先してくれる。この時も、すぐに携帯電話を取り出して迎えを呼び、身支度を整えたサーシャがメルセデスの後部座席に一緒に納まるまで、彼はあえて何も聞かなかった。
「あなたが来ていて幸いだった」
 車がモスクワに向けて走り出すと、サーシャは心からそう言った。ペトロヴィチはゆっくりとこちらに顔を向け、それから穏やかに切り出した。
「さて、マクシモヴィチ。そろそろ何があったか訊いていいかね? むろん、差し支えなければだが」
「…どうやらミーシャが事故に遭って、怪我をしたらしいのです」
「怪我! あの頑丈な男がかね。重症なのかね? いったいなんの事故だ?」
「そのへんが今一つ分からんのですよ。彼のことだから、案外かすり傷かも知れないが…」
 そう言いながらもサーシャはすでに、事態が決して楽観できるものではないことを確信していた。あのアンナの取り乱しようは、どう考えても尋常ではない。ほとんど絶叫するように早く来いと繰り返すばかりで、病院の名前と場所を聞き出すのさえやっとだったのだ。第一、なぜ電話してきたのがアンナだったのだろう? なぜジーナでなくアンナなのだ……? 電話1本かける間さえ、ジーナはミーシャのそばを離れられないということか? それほど予断を許さない状態なのだろうか? それとも、もしやジーナも一緒に……
「やめたまえ、マクシモヴィチ。悪い方へばかり考えるのは」
 ふいに割り込んできたニコライ・ペトロヴィチの声に思考を中断されて、サーシャは顔をあげて彼の顔を見た。
「断片的な情報で、あれこれ推測しても仕方あるまい?」
「これも長年の習性でね」
 サーシャはかすかに微笑んで見せた。
「どんなに断片的な情報であっても、そこから考え得る限りの結論を引き出してしまうまで、思考を止められんのです。頭が勝手に回ってしまう。だが、確かにあなたの言う通りだな」
「モスクワに着けば、嫌でもはっきりした事がわかる。さっき君も言った通り、存外たいした怪我ではないかも知れないよ。とにかく、できるだけ急ぐことにしよう」
 ニコライ・ペトロヴィチはそう言って運転手の肩に軽く触れ、君、頼むよと耳打ちした。
 車はヤロスラヴリ街道をひた走る。モスクワまではおよそ60Km、1時間はかかるまい。だが、今のサーシャには、それは恐ろしく長いドライブのように思われた。
作品名:黄金の秋 - Final Episode 1 - 作家名:Angie