黄金の秋 - Final Episode 1 -
病院についたのは午後5時45分ごろだった。ミーシャとは知らぬ間柄でもないのだから見舞っていきたいと言うニコライ・ペトロヴィチを伴って、サーシャは受付へと急いだ。そこでミーシャの病室を訊ねようと思ったのだ。だが、その必要はなかった。受付の手前で、ミーシャの妻・ジーナがベンチに腰掛けて二人を待っていたからだ。二人の姿を見ると、ジーナはゆっくりと立ち上がった。背筋をしゃんと伸ばし、口元にはかすかな笑みさえ浮かべている。
「サーシャ……まあ、ニコライ・ペトロヴィチも来て下さったのね」
ジーナはとても落ち着いていた。少々落ち着きすぎているという気がしなくもない。
いや、考え過ぎだろう、とサーシャは思った。車の中でさんざん考えをめぐらせた、その予想が当たることを期待していたわけではない。大事に至らなかったのなら、それにこしたことはないのだ。アンナがあれほど取り乱していたのは、きっと事故の直後で気が動転していただけだったのだろう。
「連絡をもらった時、ちょうどペトロヴィチが訪ねて来ていてね。アンナが急げというので、ここまで車をとばしてもらったのだ」
「そうだったの。無理に急がせてしまって、申し訳ないことをしたわね」
「それでミーシャは? 君は彼についていなくていいのかね?」
「今、アンナとイワンが付き添っているから」
「会えるかい?」
「ええ…。でもその前に、ここで詳しいことを説明しておいた方がいいと思うの」
「…そうだな」
サーシャは同意した。いくらミーシャでも、今は怪我をしているのだ。病室であれこれ訊ねたのでは、彼を疲れさせてしまうだろう。
「事故という以外、私たちは何も聞いていないからね」
「私もその場にいたわけじゃないから、詳しくは分からないんだけれど…」
ジーナはそう前置きしてから、ゆっくりと話し始めた。
「なんでも若い人の運転するスポーツカーが、猛スピードでヤウザ川沿いの狭い通りから飛びだしてきたらしいの。どうやら運転してた人は、かなりお酒を飲んでいたようね。それで、大通りを走っていた車とぶつかって、そのはずみで歩道に突っ込んだんですって。こういうのを運が悪いというのかしら。ちょうどそこに、ミーシャは立っていたのよ」
「待ってくれ」
サーシャは思わず口をはさんだ。どうも腑に落ちない。
「つまりその車は、いったん他の車とぶつかって、それから歩道に突っ込んだというのかね?」
「そうらしいわ」
「妙だな。それだけの間があれば、ミーシャなら…」
「ええ、私もそう思ったわ。ミーシャなら充分よけられたはずなのにって…。でもね、その時あの人のすぐ近くに、若い妊婦さんが立っていたんですって。ミーシャは車が突っ込んでくる寸前に、その人を押しのけたらしいのよ」
「なるほどね…」
それで自分はよけ損ねたというわけか。
「彼らしい」
サーシャがそう言って笑うと、ジーナは少し伏し目がちに微笑んだ。
「まったくねえ…。こういう事になると、俄然かっこよくなっちゃうんだから、あの人は…」
その言い方が妙にしんみりしていたので、サーシャは再び胸さわぎを覚えた。
「ジーナ。それでミーシャの怪我はどうなんだ? 今どんな様子なんだね?」
「……30分ほど前に意識が戻ったの」
「それは良かった」
ずっと黙っていたニコライ・ペトロヴィチがホッとしたように言った。隣で話を聞いていて、おそらくサーシャと同じ不安を感じていたのだろう。だが、サーシャには何かが違うような気がした。胸のざわめきが静まらなかった。彼女の言葉にはまだ続きがある。そんな気がして、サーシャは慎重に先を促してみた。
「……それで?」
「ええ……それでね……」
少し言いよどんだ後、ジーナは決意したように、まっすぐサーシャの顔を見た。
「あなたによろしく…って」
サーシャはかすかな眩暈を感じた。急に視界が狭くなり、その真ん中でジーナがにっこりと微笑むのが見えた。ジーナ独特の、愛嬌のある、まるで少女のような笑顔。
「必ず伝えろって言われたわ。だから…」
言いながら、ジーナの両目からは涙があふれ出し、笑顔は見る間に泣き顔に変わる。
「だから私、ここであなたを待っていたの」
逝ったか……。
サーシャは目を閉じ、静かにゆっくりと息を吐いた。逝ってしまったのか、私の到着を待たずに…。
不思議な気分だった。生涯の友を失ったというのに、そしてその最期に間に合わなかったというのに、自分でも驚くほど心は静かだった。いつかこういう日が来ることを、ずいぶん以前から知っていたような気がする。それが今日だとは予想もしなかったけれど。
「…分かった」
と、サーシャは言った。それからそっと、ジーナの肩に手を置いた。
「伝言、確かに受け取ったよ。ありがとうジーナ」
「ごめんなさいね」
ジーナは指先で涙を拭うと、再びにっこりとして見せた。
「泣かないで伝えるつもりだったんだけど……。でも、もう大丈夫。あの人ね、最期に笑ったの。きっと満足だったんだわ。だから私も笑うことにしたの」
サーシャは微笑し、静かに頷いた。
「彼に会えるかな…?」
「ええ、もちろんよ。ぜひ会ってあげてちょうだい」
病院の地下の奥まった一角に、その部屋はあった。がらんとした殺風景な部屋で、中央には白いシーツのかけられたストレッチャーが置かれ、そのすぐわきには暗褐色の髪をした女性と体格の良い金髪の男性が並んで座っていた。サーシャたちが入っていくと、二人は椅子から立ち上がって軽く頭を下げた。
「よく来て下さいました、アレクサンドル・マクシモヴィチ。それに…失礼ですが?」
「こちらはニコライ・ペトロヴィチだ。私の友人で、ミーシャとも懇意だった」
「お名前は父から伺ったことがあります。かけつけて下さって感謝します、ニコライ・ペトロヴィチ」
イワンはそう言って右手を差し出した。背が高く、肩幅も広く、一見いかにも強面に見えるイワンは、けれどどこか人好きのする雰囲気を持っていて、いちばん精力的に飛び回っていた頃のミーシャを彷彿とさせる。だが彼の態度は、あの頃のミーシャよりずっと礼儀正しくて立派だな……。差し出された手を握り返しながら、サーシャはそんな事を考えて、こんな時だというのに何だか少し可笑しくなった。
「急なことだったね、ワーニャ。君たちも驚いただろう」
「…未だに信じられない気分ですよ。おれ、うちの親父は不死身じゃないかって気がしてたから…」
そう言って弱々しい笑みを浮かべたイワンの肩を、サーシャは2〜3度、軽く叩いた。それから今度はアンナの方へ向き直った。
「アーニャ、知らせてくれてありがとう」
アンナは目を真っ赤に泣きはらして俯いていたが、サーシャがそう声をかけると、黙ってしがみついてきた。ミーシャはこのアンナをことのほか可愛がっていたし、アンナの方もファザコンかと疑いたくなるほど父親を慕っていたから、さぞショックが大きかったのだろう。サーシャはあえて何も言わず、そっと彼女を抱きしめてやった。
「さあ、アーニャ。いつまでも泣いていないで、彼らをパパに会わせてあげて」
横からジーナが声をかけると、アンナは涙を拭いながら頷いた。
「ええ、そうね。ごめんなさい」
作品名:黄金の秋 - Final Episode 1 - 作家名:Angie