赦される日 - Final Episode 2 -
村人たちにとって意外だったのは、アリョーシャがあの気難しそうなアレクサンドル・マクシモヴィチを怖がるどころか、すっかり懐いてしまったことだ。6歳の少年は、あの老人が好きだと言ってはばからなかった。
「ジェードゥシカ・サーシャは、僕のこと子供扱いしないんだ。僕の言うことを最後までちゃんと聞いてくれて、大人同士みたいに話してくれるんだよ」
…というのが、その理由だった。
翌日の夕方には、ヴァロージャの一家はポサドへ帰ることになっていたが、アリョーシャが帰る前にもう一度ジェードゥシカ・サーシャに会いたいと言い張るので、ヴァロージャも改めて礼を述べるつもりで、息子をイズバに連れて行くことにした。母親のレーナは、昨日の極度な不安と緊張と、それに続く安堵の大きさで疲れ果ててしまい、朝からぐったりしていたので、自分からもよろしく伝えてくれるように夫に頼んで義姉の家に残ることにした。すると、今度はマーシャがついて行くと言い出した。
もともと好奇心の強いマーシャとしては、村から少し離れたところにポツンと独りで住んでいる老人が、実際にはどういう人物でどんな暮らしをしているのかと興味津々だったのだが、他の村人たちと同様、無口で気難しいと噂される老人に、どう近づけばいいのか分からずにいた。それだけに、今回の一件は絶好のチャンスのように思われたのだ。
「あたしだってアリョーシャの伯母なんだし、何と言ってもこの村に住んでるんだからね。これからも時々あの人と顔を合わせることになるんだもの、ちゃんと知り合っておきたいじゃない」
マーシャの主張にも一理あるように思えたので、少し遅めの朝食をすませた後、ヴァロージャは息子と姉を伴ってアレクサンドル・マクシモヴィチのイズバを訪ねた。
アレクサンドル・マクシモヴィチは、イズバのささやかな前庭に椅子を出して、コーヒーを片手に本のページをめくっていた。
「ジェードゥシカ・サーシャ!」
低い垣根越しにアリョーシャが呼びかけると、老人は顔を上げ「ああ、君か」と言った。
「なんだ、またどうかしたのかね? …おや、客人を連れてきたな」
先に駆けてきたアリョーシャの後ろに、ようやく追いついてきたヴァロージャとマーシャの姿を認めて、マクシモヴィチは少し眉を寄せた。その間に少年は、勝手に門扉を開けて前庭に入ってきた。二人の大人たちがそれに続く。マクシモヴィチは仕方なく本を閉じて立ち上がった。
「突然おしかけてすいませんが、この子がどうしても、あなたに会いに行きたいと言うもんで…」
ヴァロージャはそう言って会釈したが、老人の方は会釈を返さなかった。
「ここだったら、子供ひとりでも来られそうなものだが。昨日の今日とはいえ、少々ご心配が過ぎるのではないかな」
言葉づかいは穏やかなものの、いかにも大人が打ち揃っての訪問を迷惑がっている様子だ。どうやら噂通りの気難しい老人らしい、とマーシャは思った。
ヴァロージャは頭を掻いて言葉をついだ。
「いや、心配でついてきたワケじゃなく、私も改めてあんたに礼を言っておきたいと思ったんで。なんせ昨夜は気が動転してたもんで、満足に口もきけなかったし…」
「それなら昨夜も言ったが、あの子を見つけたのは単なる偶然で、私が特に何かしたわけじゃない。そんなことで、わざわざ礼を言いに足を運ばれては、私の方が恐縮する」
「まあ、それはそうかも知れませんがね、アレクサンドル・マクシモヴィチ」
老人の返事にヴァロージャが困った顔をしているのを見て、マーシャが口を出した。
「今度のことをきっかけに、少しあんたと話してみたいって気持ちもあるんですよ。だってそうでしょう? あんたがここに住むようになって、もうずいぶんになるけれど、あんたとマトモに話したことのある人間は村にひとりもいやしない。市場やなんかには、ちょくちょくお見えになるっていうのにね。皆、あんたに何て話しかけたらいいのか分からないんですよ。だから、これはいい機会だと思ってね。もうちょっとあんたと打ち解けたいんですよ」
マーシャの言葉に、今度はマクシモヴィチの方がちょっと困った顔になり、なんと答えたものかと思案しているようだった。
大人の会話が途切れたその一瞬をとらえて、口をはさんだのはアリョーシャだった。
「ジェードゥシカ・サーシャ、この本、外国語だよね。何語?」
目を向けると、先ほどまでマクシモヴィチが読んでいた本を手に取って、珍しそうに眺めている。少年の他愛ない質問に、マクシモヴィチはいささかホッとしたような顔で答えた。
「ドイツ語だ」
「ドイツ語? すごいんだね、ジェードゥシカ。こんなの読めるんだ…!」
少年は目を丸くして言った。
「僕も一生懸命勉強したら、読めるようになるのかな? 難しそうだけど、読めたらカッコいいな」
「本当にそう思うなら、難しいことはないさ」
「でも、学校で英語を教わってるけど、僕、苦手なんだ」
「英語は嫌いかね?」
「うん…授業つまんないんだ。先生の説明、ワケ分かんなくて」
サーシャは思わずクスッと笑った。そういえば子供の頃、ミーシャが同じようなことを言っていたな。
「まあ、学校の授業なんてそんなものだ。ほどほどに聞いておきたまえ」
「ほどほどって、どのくらい?」
「そうだな、落第しない程度かな」
「そんなんでいいの?」
「いいんだ。いつか本当に勉強したいと思う時が来れば、ちゃんと思い出せる」
「ふうん…」
傍で二人の会話を聞きながら、マーシャはちょっぴり感心していた。子供に「ほどほど」とはどのくらいかなんて聞き返されたら、自分はこんな風に返せないと思う。きっと、「ほどほどってのは、ほどほどだよ!」とかなんとか適当にごまかして、子供の追及をシャットアウトしてしまうだろう。最後まで聞いてくれるとアリョーシャが言っていたのは、こういう事なのかも知れない。
少年の話が一段落したところで、マクシモヴィチは改めてマーシャの方に向き直った。
「打ち解けたいと言ってくれるのは有り難いが、あまり人付き合いが得意な方ではないのでね。できれば私のことは、今のまま放っておいてくれないか」
「人付き合いが苦手だなんて……だって外交官をなさってたんでしょ?」
マーシャが意外に思ってそう言うと、マクシモヴィチは今度ははっきりと眉根を寄せて不快感を示した。
「…どこからそういう話が伝わるのか知らないが、そんな風に詮索されるのも好まない」
「あら、ごめんなさい」
マーシャは素直に謝ったが、だからといって黙るワケではない。
「でもね、アレクサンドル・マクシモヴィチ。皆がそうやって噂するのは、あんたが謎の人だからですよ。どんな人だか見当もつかないから、噂ばっかり独り歩きして、皆なんとなく敬遠してしまうんです。せめてもうちょっと気を遣わずに接したいんですよ」
「私は村の人々に、そんなに気を遣わせているのかな?」
マーシャに訊ねるというよりは、ちょっと考え込むような様子で、マクシモヴィチは言った。そう言われれば、市場などに行った時の村人たちの様子に思い当たる。
作品名:赦される日 - Final Episode 2 - 作家名:Angie