赦される日 - Final Episode 2 -
こうしてマーシャは、9月の1週目からイズバ通いを始めた。もともと店に手伝いが入る水曜日と、午前中だけの土曜日は手が空いていたので、その日は商売を亭主に任せて使いに出ることにした。午前中に市場で買い物をしたり郵便局に寄ったりして、昼過ぎにそれらをイズバに届けた。マクシモヴィチの生活ぶりは質素なものだったが、お金の方は余裕があるのか、精算は極めて鷹揚だった。1500ルーブリに満たない請求に2000ルーブリを渡し、細かいのはいらないなどとと言った。それでマーシャは、余ったお金を次回の買い物にまわし、差額分だけ請求することにした。
マーシャが提案した≪お試し≫の2週間はあっという間に過ぎていったが、マクシモヴィチからは「もう来ないで欲しい」という言葉は聞かれなかった。単に失念していただけかも知れないが、マーシャもあえて訊ねたりしなかったので、そのままイズバ通いは習慣の一部になっていった。
ちょくちょく顔を合わせるようになって改めて分かったことだが、マクシモヴィチは本当に無口で物静かな老人だった。大抵いつも本を読んでいるか、ベランダに置かれた鉢植えの世話をしていた。マーシャは届けものを渡しながら、いつもの調子で村で見聞きしたことや人々の話題になっていることを話すのだが、彼は時々「ふうん」とか「なるほど」という相づちを返すだけで、話に乗ってはこない。といって、こちらの言うことを聞いていないわけでもなく、また機嫌が悪いわけでもないようだった。
最初のうちマーシャは、本当に届けものをするだけで引き上げていたのだが、そのうち台所に入り込んで買ってきた食料品を片づけたり、掃除をしたりという世話を焼きはじめた。なにしろ店は夕方まで亭主にまかせてあるのだし、届けものだけで引き返すのでは往復に費やす時間の方が多くて、何かもったいない気がしたのだ。もちろんこれも、マクシモヴィチが迷惑だといって怒るようならやめようと思ったが、彼は少し困惑したような顔をするだけで、やはり怒ったりはしなかった。こうしてマーシャは、少しずつ自分の守備範囲を広げていったのだった。
そんな風にして何週間かが過ぎたころ、マーシャが台所で片づけものをしていると、マクシモヴィチが入ってきて、唐突にこう訊ねた。
「あんたはそそっかしい方かね?」
「はあ? 何のことです?」
マーシャはワケが分からずに聞き返した。今までのところ、掃除や片づけの最中に物を壊したり傷つけたりしたことはない。
「つまり、よく物をどこかに置き忘れたり、落としたりする方かね?」
「はあ、幸いそういうことは、あんまりないですけどねえ」
するとマクシモヴィチは、ポケットから鍵をひとつ取り出してマーシャに差し出した。
「では、これを持っていてくれたまえ。この家の入り口の鍵だ」
マーシャは物凄くビックリし、目をまんまるにした。
「いいんですか? あたしにそんなもの渡して」
「私にはその方がいい。今のままでは、あんたが来る日は私は散歩にも行けない。これからはもう、私は出かけたくなったら、あんたを待たずに出かけることにする。ここに来て私が留守だったら勝手に入ってくれていいし、出て行く時も私がいなければ鍵をかけて行ってくれたまえ」
「それは…、あたしを信用してくださるってことですか?」
「あんたは正直な人のようだし、第一ここには盗られるような物もないからね」
それだけ言うと、マクシモヴィチは鍵をテーブルの上に置いて出て行ってしまった。マーシャは何だか不思議な気持ちでしばらくその鍵を見つめていたが、やがて手に取ると自分の家の鍵と一緒にし、大事にバッグにしまった。
ほどなくして台所の窓から、マクシモヴィチが門を出て森の方へ歩いていくのが見えた。さっそく出かけていったようだ。たぶん今までは、出かけたいと思いながらマーシャが帰っていくのを待っていたのだろう。ところがマーシャが色々と世話を焼き出して、だんだん長居するようになったので、閉じこめられた気分でいたのかも知れない。それでも文句を言うでなく、マーシャを追い出すでもなく、好きなようにやらせておいて、ただ自分が自由になるために合鍵を預けてくれたというわけだ。
村人たちの言う「気難しい老人」は、意外にも寛容な人ではないかとマーシャは思った。
マーシャがアレクサンドル・マクシモヴィチの使いを買って出たことは、村人たちの間ですっかり有名になっていた。人々は口々に「物好きだねえ」とか「よくまあ好きこのんで」とか言い合っていたが、それなりに老人の実像には興味もあるようで、マーシャの顔を見るとあれこれ訊ねてくるようになった。中でも、本当に元外交官のエリートなのか? というのが、やはりいちばん多い質問だった。
「なにしろ無口な人だからねえ、昔のことなんか何も話しちゃくれないよ。ただ、ドイツ語とか英語とか、他の外国語の本なんか平気で読んでるから、外国で暮らしてたってのは本当かもねえ」
マクシモヴィチの経歴について訊かれるたび、マーシャはそんな風に答えていた。というのも、この問題についてはマーシャ自身が初めて訪ねて行った日に釘をさされていて、とても本人から聞き出せる見込みはなさそうだし、あの時の老人の言い方は否定とも肯定とも判断がつかなかった。だからハッキリ言えることは、外国語に堪能らしいという、マーシャ自身の観察結果だけなのだ。
「なんだい、結局たいして分かっちゃいないんだな」
マーシャの答えを聞くと、人々は不満そうにそう言った。
次いで多いのが「怖くないのか」とか「偏屈で苦労するだろう」といった、老人の人柄についての質問だった。これについても、マーシャ自身まだよく分からないというのが本音だったが、少なくとも人々に謂われのない誤解があるらしいことは確かだった。
「確かに無口は無口だけど、怖いとか偏屈って感じではないよ。別に不機嫌で口をきかないんじゃなくて、もともとああいう人みたいだね。少なくともあたしは今までに、怒鳴られたりくどくど文句を言われたりしたことはないからねぇ。アリョーシャがあの人のことを怖がってなかったのも不思議はないよ」
「ふうん、そうかねえ…」
アリョーシャがすっかり老人に懐いていた事は村人たちも覚えていたが、マーシャの証言についてはまだ半信半疑の様子だった。それで今度はマーシャの亭主をつかまえて、そっと彼女の様子を訊ねてみるのだが、亭主の方は呑気なもので「まあ苛められちゃいないようだし、本人が好きでやってるんなら放っときゃいいさ」と言うだけなのだ。
いずれにしても、マーシャが使いをするようになって以来、アレクサンドル・マクシモヴィチは村に顔を見せなくなっていたから、本当のところを確かめる術もないのだった。
作品名:赦される日 - Final Episode 2 - 作家名:Angie