赦される日 - Final Episode 2 -
マーシャが合鍵を受け取って以来、マクシモヴィチは留守にすることが多くなった。10月に入って気温もずいぶん下がり、そろそろ森は寒かろうと思われたが、雨さえ降っていなければマクシモヴィチは散歩に出かけて行くようだった。老人の留守中に鍵を開けて中に入ると、台所のテーブルの上に何枚かの紙幣が無造作に出してあり、マーシャはそれで買い物の精算をした。最初はあまりの不用心にビックリしたが、たぶんそうしてくれという事だと思ったし、マクシモヴィチも文句は言わなかった。
マーシャはだいたい1時ごろに来て、イズバの主のいない間に居間の掃除をし、それから台所で何か一品料理を作り、片づけを済ませて夕方5時頃に帰っていくのが通例になった。マクシモヴィチは大抵、マーシャが料理をしている頃に戻ってきた。マーシャのおしゃべりを避けてか、めったに台所には寄りつかず、居間で本か新聞を読み始めるのが普通だったが、かといってマーシャを嫌っているワケでもないようだ。あるとき、上着のポケットを不格好なほど膨らませて帰って来たかと思ったら、まっすぐ台所にやってきて、テーブルの上にゴロゴロといくつも栗の実を掴み出したことがあった。
「まあ、どうしたんです、これ?」
マーシャは目を丸くして言った。
「森で拾ったんですか? よくまあ、こんな大粒の丸々としたのばっかり!」
「たくさんあったので良さそうなのだけ選んできた。よかったら好きなだけ持って行きたまえ」
マクシモヴィチはそう言って、ぷいと台所を出て行ってしまったが、その声は普段になく弾んだ感じで、ちょっぴり嬉しそうだった。意外に無邪気なところがあるのだな…と思ったら、マーシャは何だか可笑しくなって思わずぷっと吹き出してしまった。
また、こんなこともあった。
それは11月も終わりに近い土曜日で、朝から小雪がちらつく寒い日だったが、風はほとんどなく、また雲の切れ間から時たまうっすらと陽が差し込むような天気だった。多少の雪が積もるようになっても、マクシモヴィチは相変わらず頻々と森の散歩を続けていたから、この程度なら今日も出かけただろうとマーシャは思った。イズバについてみると案の定、入り口には鍵がかかっていた。
マーシャはいつものように鍵をあけて中に入り、まずは居間の掃除を済ませると、台所に入ってガルプツィを作り始めた。小ぶりのキャベツの芯をくりぬき、それを丸ごと茹でながら葉を一枚ずつ剥がしていく。そして、挽肉に細かく刻んだ玉ねぎとニンジン、タマゴとスメタナを混ぜ込んで作ったタネを、キャベツの葉で包み込むように巻いていく。そんな作業に集中している間に、いつの間にかマクシモヴィチが戻って来ていたらしい。彼は台所に入ってくると、唐突にこう訊ねた。
「今日、居間の書棚をさわったかね?」
マーシャはキャベツを巻く手を止めもせず、のんびりと答えた。
「ふき掃除をしましたよ。だいぶ埃が目立つようになってましたから」
「それで、何か捨てたかね?」
すでにマクシモヴィチの唐突な質問には慣れっこになっていたマーシャも、今度はさすがにびっくりして振り向いた。
「まあ、とんでもない! いくらなんでも、勝手に物を捨てたりはしませんよ」
「…そうか」
マクシモヴィチはそれ以上なにも言わずに台所を出て行ったが、そんなことを言われては、マーシャとて気が気ではない。作業を中断して立ち上がると、脂で汚れた手を洗って布巾で拭いながら、急いでマクシモヴィチの後を追った。
「何です、何かなくなった物でもあるんですか?」
そう言いながらマーシャが居間に入って行くと、マクシモヴィチはペンライトを片手に書棚の前に腹ばいになっていた。薄い定規で、書棚の下の狭い隙間から、埃やら何やらを掻き出している。
「あらやだ、何をやってるんです?」
老人はマーシャの問いかけには答えず、同じ姿勢で黙々と埃を掻き出していたが、しばらくして埃の中から何かをつまみ上げると、ようやく立ち上がった。
「おやまあ、袖が埃だらけじゃありませんか」
マーシャがそう言って歩み寄ると、老人はつまみ上げた物を大切そうに手のひらに乗せて、マーシャの方に差し出して見せた。
「これが見当たらなくなっていたのでね」
見ると、埃だらけの大きな手の中に、トウモロコシの粒よりも小さいものがちんまりと乗っている。よく見るとそれは、マトリョーシカの片割れだった。それも、入れ子の真ん中に入っているいちばん小さいやつみたいだった。
「これを探してらしたんですか?」
マーシャは目を丸くし、次いでもっとよく見ようと手を伸ばしたが、その途端にマクシモヴィチは手を引っ込めてしまった。まるで、マーシャには触らせたくないとでも言うように。そしてそれを再び自分でそっとつまみ上げると、羽織っていたカーディガンの裾で人形についた埃を丁寧に拭った。
「つまらない物に見えるだろうね」
居間の片隅にあるガラス戸棚に歩み寄りながら、マクシモヴィチは言った。
「…だって、そんなもの、何になさるんです?」
マーシャはそう訊ねてみたが、マクシモヴィチは答えず、戸棚から小さなグラスをひとつとり出すと、ちっぽけな人形をその中に大事そうに収めて暖炉の上に置いた。
「何か思い出でもおありなんですか?」
マーシャはまた訊ねた。今度はマクシモヴィチも微かに頷いた。
「これは捨てたり、なくしたりしないでくれるかね」
「そんなつもりはなかったんですけど…、きっと掃除した時に、気づかずに落っことしたんですね。すみません」
マーシャが素直に謝ると、マクシモヴィチは彼女の方に向き直って、静かにこう言った。
「いや、今日のことは無造作に置いていた私が悪い。あんたには何も言ってなかったんだから」
意外な返事だった。何か知らないが、ずいぶん大切なもののようだったから、今度こそは小言のひとつも言われるだろうと覚悟していたのに、マクシモヴィチは今度もやっぱり怒らなかった。村人たちは彼のことを不機嫌で怒りっぽい人物だと思い込んでいるが、ここへ来るようになってから、マクシモヴィチが声を荒げたり不機嫌を態度に表したりするのは一度も見たことがない。確かに無口だし、詮索や干渉を極端に嫌うところなどは気難しいとも言えるだろうが、実はずいぶんと懐の深い人ではないかという気がした。
マーシャは、もっとこの老人とじっくり話がしてみたくなった。けれどマーシャの期待に反して、マクシモヴィチはそれきり黙ってしまい、結局その思い出とやらについても何ひとつ口に出そうとはしなかった。
マーシャは諦めて台所に戻ると、料理を再開した。作ったタネを全部キャベツの葉で巻き終えると、それらの表面をフライパンでこんがりと焼き、バターを敷いた厚手の鍋に並べていく。隙間には刻んだトマトを詰め、さらにブイヨンスープを注ぎ込んでオーブンで蒸し煮する。出来上がるのを待っている間に、調理に使った器具を手早く洗って片づけをすませた。
こうして夕方5時すぎには料理が完成し、マーシャは帰り支度を整えた。帰る前に一言かけようと居間へ入っていくと、マクシモヴィチはソファに身を沈めて外国語の本を読んでいた。その手と袖口は、相変わらず埃まみれのままだった。
作品名:赦される日 - Final Episode 2 - 作家名:Angie