赦される日 - Final Episode 2 -
マーシャが帰った後、サーシャは言われた通りに手を洗い、埃まみれになったカーディガンを脱ぐと、寝室へ行って新しいセーターを引っ張り出した。それに袖を通している時、珍しく電話が鳴った。ジーナからだった。3年前にミーシャが亡くなった後、彼女はモスクワのアパートで独り暮らしをしていたが、夏の終わりに階段で転んで足を痛め、少し歩くのが不自由になったらしい。初夏と秋口にここを訪ねて来るのが彼女の毎年の恒例行事になっていたが、今年の秋の訪問はそんなわけで見送られ、6月以来会っていなかった。
「久しぶりねサーシャ、お元気?」
受話器の向こうから、相変わらず明るく威勢のいいジーナの声が訊ねた。
「変わりないよ。君の方は? 足の具合はどうだね?」
サーシャがそう訊ねると、ジーナはちょっとため息をついたようだった。
「それがあんまり良くないのよ。変な転び方しちゃったみたいで、まだ時々痛むの。それでどうにも不便だから、とうとう観念してイワンの所に引っ越すことに決めたわ」
「それがいい。イワンだって、以前から来いと言ってたんだろう? いい潮時だよ」
「まあそうなんだけど。なんか年寄りになったみたいで悔しいのよね」
相変わらずだな、とサーシャは可笑しくなった。ミーシャも万年ワンパク小僧だったが、ジーナの方もいつまでたっても強気な小娘みたいなところがある。似たもの夫婦だったのだな。
「それは仕方ないさ。お互い、いくつになったと思ってるんだ」
「歳なんか数えてるもんですか、嫌なこと言わないで!」
ジーナは抗議するような調子でそう言い、それからまた普段の声に戻って続けた。
「それでね、一応イワンの所の電話番号を知らせておこうと思って」
「私の方から電話するとは思えないがね」
「相変わらずへそ曲がりね。いいからメモしてよ」
「分かったよ」
そう言ってサーシャは紙とペンを取ると、ジーナの言う番号をメモした。長年の習慣で、電話番号など一度で覚えてしまうから、本当はメモなど必要ないのだが。
「来週中に引っ越すわ。あと、来年の夏にはまたあなたの所へ遊びにいくから」
「私はいつでも歓迎するが、無理はしないでくれたまえよ」
「いくらなんでも、半年も経てば治るわよ。もし治らなかったら、イワンに車で送らせるわ」
「待ってるよ」
そこでジーナはちょっと考えるような間を置いてから、唐突にこう訊ねた。
「…ねえ、あなたはずっとそこに独りでいるつもり?」
「そのつもりだよ。どうして?」
「だって、まるっきり独りなんでしょ?」
「うん、いや…、最近そうとも言えなくなってきてね」
サーシャが曖昧に答えると、ジーナはちょっと驚いたようだった。
「なあに? 誰か一緒に住んでるの? もしかして女の人?」
「まさか! 今さらそんなわけがないだろう」
サーシャは笑って否定した。
「ただ、近くの村のおばさんが、ときどき手伝いに来るようになったのでね」
「ふうん。あなたがそういう人を頼むなんて意外だわ」
「頼んだわけじゃない。なんというか、押しかけて来たんだ」
「…押しかけて来た!? お手伝いのおばさんが!?」
ジーナは素っ頓狂な声をあげ、俄然おもしろがり始めた。
「どういうこと? ちょっとそれ、詳しく聞きたいわ! お手伝いのおばさんに押しかけられたなんて人、初めてよ! あなたって意外と変な話が多い人よね!」
「…話すと長い。夏に君がこちらに来た時にしよう」
サーシャは詳しい話で長電話する気はなかったので、そう言って断った。ジーナはちょっと不満そうに鼻を鳴らしたが、サーシャの電話ぎらいは承知している。
「ふん…まあいいわ。とにかく、そういう人がいるんなら、よかったわ」
「どうして?」
「だって、あなたに何かあった時、気づいてくれる人がいるってことでしょ」
サーシャはちょっと唖然とし、それからクスッと笑って言った。
「そんな事を言われると、なんだか年寄りになった気がするな」
「仕方ないわよね。あなた、いくつになったの?」
ジーナは愉快そうに声をあげて笑うと、また気が向いたらかけるわと言って電話を切った。ひとつなにか言うと、きっちりやり返してくるところも相変わらずだ。電話で話している限り、ジーナも自分も、初めて知り合った20代の頃から少しも変わっていないような気がする。だがその一方で、流れた歳月に相応の過去が自分の中に堆積しているのも、確かに感じられるのだった。
奇妙なものだ、とサーシャは思った。
ジーナとの束の間の電話を終えたサーシャは、本の続きを読むつもりで居間に戻ったが、ソファの手前で暖炉の上に置いたグラスが目に入り、足を止めてそこに納まった人形に見入った。これもまた、自分の中に深く堆積している過去のひとつだった。かつては二度と思い出すまいと目に付かない場所に放り込んでいたものだが、彼女が亡くなって以来、改めて身近なところに置くようになっていた。あれはもう半世紀近くも前のことになるのだな、とサーシャは思った。彼女との再開でさえ、ずいぶん前のことだ。にも関わらず、そのほろ苦い記憶は今でも鮮明に蘇るのだった。
「とうとう失くしてしまったかと思ったよ」
サーシャはグラスの中の人形に話しかけるようにそう言い、ちょっと微笑んだ。
ソファに戻って再び本を開くと、サーシャは続きを読み始めたが、いつしか意識は本を離れて漂い始め、あのブダペストの暗く寒い裏通りへと戻って行ってしまう。走り去る車のリヤウィンドー越しに見えた銀色の髪や、ポケットの中であの小さな人形を握りしめた感触が、昨日の事のように思い出されて、本に集中することができなくなってしまった。
サーシャは諦めて本を投げ出し、ソファーにもたれてため息をついた。少し感傷的になっているようだ。自分には珍しいことだ。何故だろうと考えるうちに、先ほどのジーナの言葉に思い当たった。今まで考えたこともなかったが、確かにそういう年齢になっているのだ。そして、こんな風に昔の事を感傷的に思い出している自分は、もうすぐ死ぬのかも知れないと、ふと思った。今のところ身体にはまだ何の問題もないし、いきなりスポーツカーが突っ込んでくる環境でもない。それでも死は、ある日突然やってくるのかも知れない。
けれど、それに対する恐れや不安はまるでなかった。そういう自分に、サーシャは少し驚いていた。
作品名:赦される日 - Final Episode 2 - 作家名:Angie