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さよならラ・ピュセル

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***

 音もなく、霧のような雨が降る。彼が自ら丹精こめて世話する広い庭園の、生い茂る緑を濡らすか細い音を聞くともなく聞きながら、イギリスは静かに本のページをめくる。
 白い少女は、彼の座る古い椅子の背もたれに腰掛けて、細い足を行儀悪くぶらつかせている。
「うっとおしいな。表で遊べ」
 文字から目を上げ叱ってみせても悪びれず、上から手元をのぞき込んでくる。イギリスの額にぴきりと血管が浮いた。
「そうかそうか、そんなにこの本に興味があるなら読んでやろうか」
 そんな彼の姿は端から見れば何もない宙に向かって喋っているようにしかみえない。
 周囲からは奇妙な独り言と認識され生温かくスルーされているいつもの光景だが、雨のそぼ降る静かな休日、幸い書斎に他の人影はない。
「面白いことが書いてあるぜ。『フランス人が情熱的な愛の話ばかり謳うのは、彼らが実際にはそんなものの存在を欠片も信じていないからである』」
 冗談とも本気とも知れない口調で軽々しく愛を語る髭面の天敵の、無駄に綺麗な顔を思い描いて、イギリスは忌々しげに吐き捨てた。
「あいつらどいつもこいつも、腹の底では女なんかちり紙みたいにしか思ってないエゴイストばかりだからな」
 どうだ、とばかりに意地悪く唇を歪めてみせる彼の言葉を理解しているのかいないのか。半透明の少女は不思議そうに彼を見つめた後、目の前をすいと飛び過ぎた虫の羽の精霊に興味をうつし、それを追ってひらりと駆け去る。
 見送ったイギリスは、いささか行儀悪くチェアの背もたれに体重をかけると、ため息と共に低く呻いた。
「くだらねえ。どいつもこいつも見たいものを見ているだけさ。おれも、おまえも、――あいつもな」


***

 細く切れ切れに聞こえていた祈りの声が、錠の開かれる音に、蝋燭の火が消えるように、途切れた。
 薄暗い小部屋の片隅で、体を起こし、怯えた獣のようにこちらに目を向けた娘は、大きな瞳に彼を映した途端、不思議なものでも見るようにかすかに首をかしげた。
 娘の髪は無残な坊主に荒く刈りこまれ、ところどころ血が滲んでいた。男物の服から覗く手首は、枯れ枝のようにやせ細っていた。寝台に身を横たえたまま、起き上がることも出来ないほど衰弱した娘の姿が、この牢獄塔の中で繰り返された凄惨な責め苦を物語っていた。
「証言を、撤回する気は、ないのか」
 気がつけば、低く、訊ねていた。背後で、ついてきた部下が身を固くしたのが解った。
 『イギリス』にとって、この『聖女』を名乗るちいさな娘の、失墜と処刑は絶対に必要な条件だった。十二分に承知しながら、けれども『彼』は、その時そう訊ねずにはいられなかった。

 痩せて目ばかり大きくなった顔をまっすぐ彼にむけて、娘はひび割れた唇をひらいた。
「わたしは、わたしの神を、けして否定いたしません」
 ひゅうひゅうと息まじりの、しゃがれ掠れた声だった。人ならぬ身の彼でなければ、聞き取ることは出来なかったかもしれない。
「おまえは、死にたいのか」
 問うと娘は、紫に腫れた唇を振るわせた。
「いいえ」
 切れ切れに、かぼそい声で歌うように、彼女は言った。
「わたしは朝の光が好き。早起きして駆ける誰もいない野原、焼きたての小麦のパンや、あたたかいスープの匂いが、好き。わたしを育ててくれた祖国が、好き。生きるのが、とても好きよ」
「…ならば、何故」
 彼女は大きな目でじっとイギリスを見つめ、「――ああ、」と小さく驚愕の息を吐いた。そして重大な秘密を発見したかのように、低く、囁いた。
「あなたは、やさしいひとね…!」
 空色の大きな瞳から、透明な涙がひとつこぼれ落ちた。
「本当は、わたしを殺したくなんか、ないのね――かわいそうに」
 イギリスはぎょっと身を引いた。聞いては、いけないと思った。この娘は――恐ろしいことを言うつもりだ。
 痩せこけた頬で、刑死人の麻服をまとった哀れな姿で、強い空色の瞳で、花が開くように、彼女は笑った。
「でも、どうか、あなたはあなたの役目をはたしてください。わたしは、わたしの役目を果たすから。かなしまないで。だって、これは、しかたがないことなのよ」
 気づけば逃げるように、部屋を飛び出していた。重い鉄の格子戸がしまる音の後で、静かな祈りが降ってきた。
 か細く、穏やかに、途切れることのない祈りの声に背を向けてイギリスは、転がるように石段を駆け下りる。自分の喉から悲鳴にも似た叫びが漏れるのをこらえながら、叩きつけるような雨が振る表に走り出て、彼は立ち止った。

 塔の下に、男がいた。
 いったいいつからそうしていたのか、立ち枯れた木のように、青ざめ、憔悴もあらわに目を落ち窪ませた幽鬼のような男が、のろのろとこちらへ顔を向け――そのとき初めてイギリスは、それが数百年の付き合いのある腐れ縁の男だと気づいた。常は空色に輝く至上の宝石にも似た目が、虚ろに彼の姿を映し、再び無感動に塔に戻る。
 なにか言おうと口をひらいた――言葉は、結局、みつからなかった。
 凍りついたように無言のまま、ふたりの『国体』は雨に打たれてたちすくんでいた。

***


 灰が舞い上がる。黒い煙が天を埋め尽くす。広場を埋め尽くす人、人、人。
 鼓膜をつんざく群衆の叫び、悲鳴。炎の舌が白い肌を舐め回す。髪が、肉が、焦げていく、その臭い。
 あの男はどこかで見ているのだろうか。

 祈りは、

 彼女の祈りはもう、聞こえない。


***


 イギリスは眼を見開いた。


 見慣れた天井と、安らかな夜の空気があった。
 いつもの、夢だ。
 悪夢にも、悲鳴すらあげない程に、慣れきった自分を今更のように確認し、彼はサイドボードの銀の水差しを手に取り冷たい水を飲みほした。

 今夜はたまたま、この夢だった。明日はきっと、また違う悪夢だろう。
 数え切れない凄惨な光景を、繰り返し、ただ見つめてきた。身の毛のよだつ断末魔の悲鳴を、心を引き裂く悲嘆の声を、ただ聞いてきた。これからだって、きっと、見届けていくだろう。見届けることしか、彼にはできない。

 片手で、顔を覆った。涙は流さない。嗚咽も漏れない。
 慣れている。

 窓の外に目を向ける。皓々と白い満月に照らされた、白薔薇の咲き乱れる庭園で、白い少女は無心に遊んでいる。
 あの日から、600年、変わらない光景だった。


作品名:さよならラ・ピュセル 作家名:しおぷ