第二部23(96) 嵐の後
「無茶だ!マリア、それはいくら何でも危険すぎる。これは君のお父上が極秘に託されたものだとは言え、個人がどうこうというレベルのものではない。国家の…いや、下手するとヨーロッパ全土に影響の及ぶ、いわばパンドラの箱の鍵だ。これにこれ以上深入りしたら、君の身の安全だって危うくなる。…寝ている猛獣をわざわざ起こすようなものだ」
― 頼む。考え直してくれ…。
ダーヴィトのその言葉は、最後は悲鳴のような懇願になっていた。
「ありがとう。ダーヴィト。…私の身の危険を心配してくれて」
激しく動揺しているダーヴィトに対して、マリア・バルバラは極めて落ち着き払っていた。
「当たり前だろ!」
そんな落ち着き払った彼女の態度に、ますますダーヴィトはムキになり返す言葉は最早怒鳴り声となる。
「そんな大きな声を出さないで。…落ち着いて頂戴。私は大丈夫だから。…私だって危険は重々承知だし…それに無策ではないわ。ねえ、ダーヴィト。あなたに…頼まれて貰いたいことがあるの」
「なんだい?」
「この顛末を…父が関わった、あのフォン・ベーリンガー一家射殺事件から、昨日の出来事までを、克明な手記にまとめて欲しい。すぐにでも発表できるレベルでね。それが仕上がり次第、私はそれを切り札に、相手と…ロシア側と交渉をするから」
― もし私の身の安全が脅かされるようなことがあったら、すぐさまそれを出版社、新聞社に持ち込む手筈は整えていると、ね。
「こんな荒唐無稽なネタ…どこの新聞社も出版社も、まともに取り合うものか…。それにお上から握りつぶされるのが関の山だ」
「大手ならば、そうかもしれない。でも、タブロイド紙ならばどうかしら?人の口に戸は立てられないものだわ。こんな面白おかしい話に、人々が飛びつかない筈はない。至る所で上がった無数の火の粉は、たちまち大きく燃え上がるでしょう。…ドイツだけはなく、スイスの出版社へも持ち込む手筈を整えておくつもりよ。同じドイツ語圏ならば翻訳の必要もないし、あそこには…今のロマノフ王朝と敵対する革命勢力が多く亡命していると聞くわ。ロシアにとってこの情報が彼らに知られては、さぞかし困るでしょうね」
マリア・バルバラのその大胆な提案に、ダーヴィトも執事も言葉もなく押し黙る。
「…君には負けたよ。分かった―。なるべく早く、この一部始終を手記にまとめることにするよ。…ぼくは6月にゼバスを卒業したら・・・・秋からウィーンの大学へ進学する予定だけど、それまでに…この休暇中に必ず手記を仕上げることを約束しよう。ウィーン行はギリギリまで伸ばすよ。…執筆するのに、ここの図書室を使ってもいい?」
「資料は殆ど焼けてしまったけれど。それでよければ。…あと、あなたの部屋を用意させるわ」
そう言ってマリア・バルバラが執事に目配せした。
マリア・バルバラの目配せを受けて執事が小さく目で頷いた。
作品名:第二部23(96) 嵐の後 作家名:orangelatte