第二部23(96) 嵐の後
ダーヴィトの回想
こうして、ゼバスを卒業してから大学に入学するまでの、短い時間を、ぼくは、このアーレンスマイヤ家で、最愛の女性と過ごす事となった。
日中は手記の執筆にあて、夜になると執務を終えたマリアが僕の傍らでその書き上がった原稿を校正し、書き写して複写を作る。
アーレンスマイヤ家の事業については、僕の実家から経営再建のスペシャリストが派遣された。
今は落ち込んでいるアーレンスマイヤ家の事業だが、専門家の目を通して見直してみると中には将来性の見込める分野もあるようで、今後の経営次第では十分に持ち直す余地があるらしい。
特に、繊維の分野はこれから需要がどんどん増える可能性があるようなので、一時はキッペンベルク商会に売却をも検討していた織物工場は残して、ここへラッセンが融資することに決まった。
そして―、その読みは見事に的中し、その十年後、第一次世界大戦勃発時には、ここの工場で生産した布地がパラシュートやトラックの幌、そして軍服に使用され、ドイツは敗戦し国は荒廃したが、その一方アーレンスマイヤ家はこの特需で思いがけず財政が潤ったのだった。
アネロッテは、その後服毒の後遺症から回復することなく、四肢の自由と言葉を奪われたまま、ベッドに寝たきりでその後2年の余命を永らえた。彼女が昼となく夜となく苦痛に漏らすうめき声に恐れをなし、実に半数以上の使用人がアーレンスマイヤ家を去って行った。そんな彼女を献身的に介護し、最期を看取ったのは、彼女に命を奪われかけた、マリア・バルバラとゲルトルートだった。ゲルトルートは、屋敷の使用人の半数が去った後もこの屋敷に良く仕え、そののちこの屋敷の女中頭となった。
僕は大学卒業後、このレーゲンスブルグへ戻って来てマリア・バルバラに求婚した。
そしてその一年後に僕らは、待望の子供―、息子を授かった。
子供が生まれた年に、丁度失踪から五年が経過したアーレンスマイヤ家当主、ユリウス・レオンハルト・フォン・アーレンスマイヤの死亡届を出して、マリアがこの家の15代当主となった。
これで、いいと思った。
きっと、ユリウス・レオンハルト・フォン・アーレンスマイヤと名乗っていた少年はもうこの世には存在しない。
きっと、僕等の知らない世界の片隅で、最愛の男と幸せに過ごしているのだろう。
ありのままの彼女本来の姿に戻って。
あの時15だった彼女も、もう20代だ。きっと大輪の花が開いたような美しい女性となっているだろう。
僕はといえば、大学卒業後は、夫として当主のマリアを支えながら、伝記作家として作品を発表する傍ら、非常勤で母校ゼバスの文学の教師として教鞭を執っている。
あの事件で目の当たりにした欲望、恨み、復讐、様々な人間の業―。あの体験は僕の作家としての原点となった。一度闇を間近に感じたものは…、もう光だけを見ている事は叶わない。あの闇に強く引き寄せられることに抗えない。― だからあの男は刑事となり闇を追い続け、僕は、伝記作家となって人の業を相変わらず追い続けている。
幸いマリアはあの切り札を使うことなく、ロシア側と交渉が成立して、あの鍵ごと無事ロシア皇帝の財産を返還することが出来、あの手記はめでたくお蔵入りとなった。
だけど、いつかあの―、フォン・ベーリンガー家殺害の真相を克明に書き記した幻の処女作も、日の目を浴びる時が来るのかもしれない。だけど、それは、きっとまだまだ先の事だ。
あるいは僕の死後―、マリアの死後―。それとも永遠に日の目を浴びずに再び歴史の中に葬り去られていくのか・・・・。
いや。そんなことはないな。
真実は―、いくら改ざんしても…どこかで、どこかから…必ず綻びが現れるものだから。
作品名:第二部23(96) 嵐の後 作家名:orangelatte