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第二部24(97) 交渉

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「お話したいのは、この鍵の件です」

マリア・バルバラがバッグから鍵を取り出して二人の前に滑らせる。

「ご存知の通り、これは帝国銀行の金庫の鍵です。先だって、弁護士立ち合いのもと、フランクフルト・アム・マインのその支店へ足を運び、中身を確認してまいりました。確かに、現金、金塊で総額数千万ルーブルがその金庫に収められておりました」

「ほう。…それで?」

「これを…そちら様へ、ロシア帝国へお返し申し上げます」

「…何故?」

「私には…アーレンスマイヤ家には必要のないものだからです」

「…あなた、なかなか奇特な方だ。先代アルフレート亡き今、この隠し財産の存在を知る人間は、このドイツにはあなたを含めてごくわずかだ。隠匿してしまおうと思えば、いくらでもできるのではありませんか?失礼ながら、アーレンスマイヤ家を調べさせて頂きました。事業の方がかなり行き詰っていらっしゃるのではありませんか?この財産を…行き詰った事業に充てようとは、お思いになられなかった?」

ユスーポフ と名乗ったそのロシア貴族の言葉に、マリア・バルバラが屹と彼を見据えた。

「お預かりしたものを勝手に使うのは、泥棒です。没落はしていても、人様の財産に手を付ける程、落ちぶれてはおりませんわ。そちら様も父を、アルフレートを信頼したからこそ、この鍵を父に預けたのではございませんか?その娘をそのように見くびるという事は、私の父を、ひいてはその鍵を託したあなた様のお父上をも愚弄しているという事ではございませんか?」

マリア・バルバラの鋭い反論に、やや戸惑いながらその意をロストフスキーがレオニードに伝える。

ロストフスキーからその言葉を聞いたレオニードのこめかみがピクリと震える。

その様子を見たマリア・バルバラが

「少し言い過ぎましたわ。…ごめんあそばせ。お互い冷静に戻りましょう」

と仕切り直した。

「いえ、こちらこそ。大変失礼な物言いを申し上げました」

― 話をもとに戻しましょう。


二人が再び交渉へと戻る。

「私の要求は至ってシンプルなものです。この、帝国銀行の鍵を、ロシアへ返還申し上げます。元々私の父が預かったもの。父亡き今、この鍵を私が、当家が預かり続けている義理も必要もございません。この話はなかったものとして、そちらでお引き取り下さい」

「もうドイツでは預かれない…と」

「ええ。…実はこの鍵を巡って、この30年間で凄惨な出来事が繰り広げられました。人の命と名誉が奪われ、その命を奪われた人たちの復讐が再びの惨事を生み…。正直に申し上げますと、この鍵を預かったアルフレート自身も又、このために命を失ったようなものです。このような、全く私の人生とは関係のない国の、関係のない人間の預けたもののためにこれ以上人の血が流れ、命が奪われるのはまっぴらです。このような災いの種は、もう私には手に余りますので、どうぞ、お引き取り下さい」

「…もし、私が、貴方の申し出を断わったら?そんな財産ロシア帝国は一切あずかり知らぬ、何かの間違えだと言ったら?」

「そう…。ならば、その財産で―、ドイツの国債でも買おうかしら。きっとそれでドイツはますます軍備を増強し、国力を高めるでしょうね」

「ほう、脅しですか?」

「脅しついでに―。ここを出た後で、私を口封じのために抹殺しようとしても、無駄でしてよ。…この隠し財産にまつわる顛末は、全て手記にまとめてありますの。私に何かあれば、これをすぐに新聞社に届ける算段は出来ておりましてよ」

そう言ってマリア・バルバラは射るような強い眼差しをレオニード・ユスーポフの傍らのロストフスキーに向け、その手記の原稿を手渡した。

ロストフスキーが、その原稿に目を落す。

「侯―。確かに…」

ざっと目を通したロストフスキーが困惑した顔で、その原稿の内容が間違いなくこの隠し財産にまつわる顛末である事を伝える。

「ちなみに―」

顔色を変えた二人に尚もマリア・バルバラが畳みかける。

「この原稿は、ドイツ国内のみならず…、スイスの出版社、新聞社にも持ち込みをする準備が出来ておりますの。― スイスには、そちらの国の現王朝を倒そうと日夜暗躍し続けている革命勢力が沢山潜伏しているのでしょう?―もし、そういった革命勢力にこの情報がばれたりしたら、非常に都合が悪いのではございませんこと?」

― さあ、どういたします?

マリア・バルバラに最後通牒を突き付けられたレオニードが彼女を睨みつける。

レオニードの視線を平然と受けたマリア・バルバラも強い眼差しで目の前のロシア貴族を睨み返す。

暫し二人の間に激しい火花が散らされた。

先にその緊張を破ったのはレオニード・ユスーポフの方だった。

「いいでしょう。負けました。この鍵は、私が引き取りましょう。…このような外国で、まさかあなたのようなたおやかな女性に…このようにコテンパにやられるとは…。フ…。あまりにも鮮やかにしてやられたので、かえって清々しくさえありますな」

そう言って表情を緩めると、差し出された鍵を懐へ納めた。

レオニードの敗北宣言を受け、マリア・バルバラもその表情を緩めた。

「こちらの要求を全面的に呑んで下さって、感謝申し上げますわ。…ロシアも、先の日本との戦争で、色々厳しい局面を迎えているかとは思いますが、これも何かの縁ですもの。あなたのこれからのご無事とご活躍を心からお祈り申し上げますわ」

そう言って、マリア・バルバラは白い右手を差し出した。

「お心遣い…痛み入ります。あなたも…これからのご多幸をお祈りいたします。許嫁殿とお幸せに」

そう言うと、ロシア貴族、レオニード・ユスーポフは差し出されたマリア・バルバラの手を取り、その白い甲にそっと口づけた。

作品名:第二部24(97) 交渉 作家名:orangelatte