排他的ユーフォリア
言葉の続きは、彼女と視線が交わった瞬間にいともあっけなく音という形を失ってしまった。
凛とした翠の瞳が静かにルヴァを見つめ、まなざしと同じ熱量を持って言葉が紡がれた。
「宇宙の存亡がかかっていた試験で、わたしは女王にならなきゃって思ったからあのときはお断りしました。だけど、あなたを嫌いになったわけじゃないわ」
アンジェリークの手が伸びてきて、そうっとルヴァの頬に触れた。
涙を目いっぱい滲ませながらも、ぐっと歯を食いしばり悲しみを独り飲み込んで喉を上下させている彼の、とても温かな頬に。
「未熟なまま試験をほったらかしにして逃げたって思われたくなかったし、あなたの立場も守りたかったの。だから、わたしが女王として一人前になるまでは黙っていようと決めてました……けど、もう限界」
そう言ってアンジェリークがまばたきをしたとき、ルヴァよりも先に涙が瞼から溢れ出し、筋を引いて流れ落ちた。
「ルヴァさまをずっと愛してます。こんな変な女王でも、未熟なわたしでも、いいですか?」
アンジェリークの震える声が、それまで抑圧されてきた想いの深さを知らしめている。はらはらと涙が零れ濡れた彼女の頬を、今度はルヴァの指が優しく拭う。
「変だなんて……あなたは私にとって、唯一無二のひとなんですよ。まだお分かりになりませんか」
言葉の最後にそっと囁いた愛しいその名は、口づけと共に彼女の中に消えていく。
アンジェリークからの告白がこれまで続いていた胸の痛みを綺麗さっぱり洗い流して、今までうだうだと思い詰めていたのが嘘のような晴れやかさだ。
「分かりません。だって、夢の中のわたしばっかり愛されててずるいです」
頬を膨らませてすねる表情までもがルヴァにはとても可愛らしく見えて、困り果てながら笑みを浮かべて問い返す。
「ず、ずるいとは?」
「夕べのこと、どれだけわたしが嬉しかったか、ルヴァさまはまだ分かってないでしょ? だから、もっと教えてください……これから一週間ずうっと」
少し体を離したアンジェリークが指をさした場所へ視線を移すと、昨夜の名残が点々と残っていた。
「し、しかし、陛下にはご公務があって私は謹慎中の身ですか……ら、ってまさか」
彼女はこれから一週間と言った。謹慎期間も同じく一週間。そしてこの館にいられるのは監視員一人と自分の計二人のみ────導き出された答えにルヴァはほんのりと頬を染め、なんだか気恥ずかしくなったのを誤魔化すように頬を掻いて苦笑した。それへアンジェリークが嬉しさに揺れる優しい微笑みを返して、ルヴァの赤みを帯びた頬に口づける。
「あなたを監視するのに、わたし以上の適任者はいないって言われてきましたけど?」
頬から離れた桜色の唇を目で追いかけて、今度はルヴァの唇が重なる。
「そうですね。あなたがいてくれるなら、もうあんなものに頼る必要はありませんから……」
指の間に絡ませた金の髪にも感謝と愛しさを込めてそっと口づけた。
それからの一週間、宇宙の至高の監視下で過ごした謹慎も終わり、緘口令など何のそのと言わんばかりの情報漏えいのせいで、地の守護聖の執務室には入れ代わり立ち代わり他の守護聖たちが訪れた。
その多くは彼の恋の成就を冷やかしを含めて概ね祝福する声だったが、ルヴァは謹慎中の一週間についてどんなに訊かれても頑なに口を閉ざした。
唯一オリヴィエだけがしつこく絡んでどうにか聞き出せたのは「久し振りにしっかり休養できた」などという、ゴシップに飢えた彼らとしては毒にも薬にもならない情報だけだったという。
そして、それから暫く経ったある土の曜日。
さすがに毎週とまではいかなかったが、二人は時折行き来して週末を共に過ごしていた。今日はアンジェリークがルヴァの私邸へ来て寛いでいる。
食後の緑茶を飲みつつ、ふとルヴァが思い出したように話し出した。
「……そういえば、謹慎前にあなたが来た日なんですけどね」
アンジェリークのためにと新たに用意された湯飲みを手にして、翠の瞳がひとつ相槌を打った。
「ええ」
ルヴァはいつもの湯飲みに視線を落としながら話を続ける。
「あの日、緑茶の味が少しおかしかったんですよ。妙に渋味が強くて」
不思議そうな顔をしたルヴァを前ににこにこと笑みを浮かべつつ、アンジェリークの口から驚くべき言葉が漏れた。
「そうでしょうね、わたしが薬包の半分くらい入れちゃったんでー」
「…………へっ?」
「あのお薬、ルヴァが試すくらいだし大丈夫かなって思って、半分だけ」
衝撃の告白に暫し言葉を失い、たっぷり五秒ほど経過した後にようやく喉から声が出た。
「薄々、あの薬だったんじゃないかって思ってはいましたが……入れたのがあなただったとは、想定外でした」
薬包ひとつを全量入れると酸味とエグ味が出るので飲み辛かったが、半量では緑茶の苦みが多少強まる程度の風味だったため、珍しく淹れ方を失敗したのかと思い、さして気にも留めずに飲み干していたのだった。
「実はね、わたしも半分飲んでみたの。混ぜたのはそれの残り」
「あ、あなたって人は……! お体に障ったらどうするんですか!」
ルヴァから驚きの声が上がった途端、アンジェリークの頬がぷくりと膨れた。
「えーっ、それをルヴァがいうんですか?」
不服たっぷりのふくれっ面をルヴァは指でちょんとつついて戒める。
「わ、私は自分で好んでやったことですから……あなたは、だめです」
ごにょごにょと言葉を濁すルヴァへ、アンジェリークの目がいたずらっぽく弧を描く。
「わたしだって逢いたかったんだもの。それに、使ったのは半分だけよ?」
逢いたかったからと言われれば率直に嬉しかったものの、彼女の肩には宇宙の安定という責任が圧し掛かっている。驚きと同時に恐ろしくなり、一応加減したのだと胸を張るアンジェリークを複雑な思いで見つめた。
「あ、あれはですね……幻覚剤の一種ですが、女性が取り入れると催淫効果があるんです」
道理であの晩、割と無茶な求め方をした割に痛がっていなかった────と、ルヴァは脳内で妙に納得していた。
隣に座っていたアンジェリークがふいに体を預けてきて、受け止めると同時に彼女の手がルヴァの顎をするりと撫でた。
「それを知った上での行動ですって言ったら、怒ります?」
アンジェリークの躊躇いがちに甘えた口調と優しい触れ方をどこかくすぐったく感じて、思わず頬が緩む。
「いいえ、怒りはしませんよ。ですがもうやめましょうね、お互い必要ないでしょう?」
膝の上に彼女を引っ張り上げるとちょうど同じ高さになる目線。
互いの目の中に相手を映したまま、どちらからともなく顔を寄せ合ってくっつける。鼻先を擦り合わせたり耳を食んだりしてふざけているうちに次第に遊戯の域を出て、ルヴァの熱い腕がアンジェリークの身体をぎゅうと抱き締めた。アンジェリークから少し苦し気な吐息が漏れ聞こえたとき、ルヴァはほんの僅かに腕を緩めてしみじみと目を伏せた。
麻薬の効果など足元にも及ばない多幸感が、いまここに在る。
この金の髪の女王陛下に心惹かれたときから、ユーフォリアはただ二人の間にこそ存在していたのだと思い知った。