14の病
要領を得ない呟きに、俺は思わず動きを止める。見れば、いつの間にかこちらへ向けられたイギリスの顔が、痛みだけじゃない何かで暗く歪んでいた。
こめかみを庇うように、顔半分を手で覆ったままのイギリスは、中途半端に差し出された俺の腕に、一瞥をくれ軽く鼻を鳴らす。
そして吐き捨てられた言葉は、酷いものだった。
「どうせ、『治療ごっこ』なんざすぐに飽きてやめちまうくせに。迷惑なんだよ」
「なっ!」
「なのに、いつでも? 後で? はっ! 笑わせんな」
嘲るように笑ったイギリスは、あいている手で、差し出されていた俺の手を叩き落とす。別に痛くもなかったけれど、その衝撃で俺はようやく我に返った。一気に怒りが湧いてくる。当たり前だ。突然あんな暴言を投げつけられて、平静でいられるわけがない。
「……君…それ本気でいってるのかい?」
ごっこ遊びなんかで、俺がここにきてると?
怒りに掠れた問いを受けたイギリスは、でもひるむでもなく、頷いた。
「ああ、違うのか?」
「そんなわけないだろ!」
なんでそうなるんだと怒鳴りつけたけど、まるで効果はなかった。むしろ俺の怒りを煽っているのかなんなのか、相手は薄っすら笑いさえ浮かべている。ただ、片方だけ見えている目は、さらにきつい光を浮かべていた。
こんなイギリスを見るのは、あの雨の日以来はじめてかもしれない。そう思った瞬間、血と硝煙、泥の臭いが鼻先を掠めたような気がして、俺は微かに目を眇めた。
と、そこでイギリスがまた小さく呻いた。頭が痛むのか、顔半分を覆っていた方の手で、こめかみ辺りを掻き毟るように動かす。
やっぱり、喧嘩してる場合じゃない。とにかくこの人がなんと言おうと、今はさっさとベッドに連れて行くべきだ。少々暴れようが、問答無用で担ぎ上げて運んじゃえばいい。
そう決めて俺は、まず見ている方も痛くなるような動きを止めさようと、頭を掻き毟っている方の腕を掴んだ。そして、そのあまりの冷たさに息を飲む。
「…っ!」
驚きに、一瞬の隙が生じた。そして、本日三度目にして、またも腕を振り払われる。なんてわからずやだ。
「っ君、いい加減に……え?」
いらいらと顔を上げ言いかけた俺の言葉は、驚きにのまれた。
「え? それ……」
恐る恐る指差した俺に、イギリスは舌打する。
その痛みからか苛立ちか、歪み眇められたイギリスの片目は、見慣れた緑の虹彩だ。だけどそれらを囲む白目の部分が────真っ黒に染まっていた。
え? カラーコンタクト? でも、なんでこの場面で?
「…いいから。もう帰れ!」
言い捨てて、イギリスはさっと身を翻した。驚きと混乱で固まっていた俺は、置き去りにされかかり、慌てて後を追う。
「お、オッドアイ! オッドアイのつもりなのかい? それって」
中二病の重症キーアイテムじゃないか!
最後はすでに絶叫に近いこちらの声に、答えることなくイギリスは扉の奥へと消える。目の前で大きな音をたてて閉められたドアを、俺はすぐさま開いた。
そして、その先で思わぬ事態にぶち当たることになる。
まずはじめに、扉を開けた先に、イギリスの姿はなかった。
奥へと続く廊下はもちろん、どこかの扉を開け閉めした形跡もなく、それどころか僅かな物音一つしない。まるでイギリスがこの扉からどこかにワープしてしまったんじゃないかと思う位、静まり返っている。おまけに妙に暗かった。
ここじゃあ、晴れの日だって俺んちよりも薄暗いのが当たり前だけど。そういう暗さじゃないんだ。まるで、窓なんて一つも無い地下壕みたいに真っ暗で、湿った空気が充満している。唯一の光は、自分のあけたドアから差し込む、夕方の日の光だ。そこに長く伸びた俺の影が映りこみ、動いていた。
はっきり言って、不気味だ。
だけど俺はヒーローだからね。病人を放っては置けない。妙にネガティブな勘違いもしてるみたいだから、尚更だ。よし─────いくぞ!
俺は軽く気合を入れ、息を吸い吸い込む。
「い、イギリス! 入るぞ!」
…ヒーローらしく、家に入る断りをいれたんだ!
勿論返事はない。だけどかわりに、廊下の奥で微かに物音がした。いや、物音というよりも何か水っぽい泥が跳ねるような音だ。
嫌な予感が俺の背筋をパレードしてたけど、結局は音のした方へと視線を移した。薄暗い廊下の奥へと目を凝らす。
そこでは────なにか…そう、黒い塊が現れ始めていた。現在進行形でだ。
息をするのすら忘れてその場に立ち尽くす俺の視線の先で、ぐちゃぐちゃと、聞き苦しい音を立てて黒いスライムのような塊が、廊下のいたるところから染み出してくる。
「な…」
そいつらは、生き物の内臓みたいに脈打ち、表面から絶えず黒い液体を垂らしながら這いずって集まり、積み重なっていく。みるみるうちに、黒い塊は天井に届くほどになった。
────なんなんだよ、これ!
驚きに、声も出せず内心で絶叫した俺は次の瞬間、ひっと声を上げた。
黒い塊の、マグマみたいに脈打つ表面に、真っ黒な手が現れたからだ。
最初は手首までしかなかったそれは、ぬちゃぬちゃと不快な音をたて伸びだしてくる。そいつは粘着質な黒い液体を、指から滴らせながらまるで俺を誘うようにこちらへ伸びてきあああああああああああああ!
「うわああああああああああ!!」
限界に達した俺は、叫びながら後ろへ飛びずさって外へ出ると、玄関のドアを叩きつけるように閉めた。すると息をつく間もなく今度はウォオオンという獣の鳴き声のような音が響いて地面が揺れる。直ぐに揺れは収まったけど、不意を付かれた俺は、バランスを崩してしりもちをついた。
「いっ!」
石畳に打ち付けた部分をなでながら、俺は荒い息を吐く。全力疾走した後みたいに、ばくばくと心臓の音が煩い。
「……な……なんなんだ……っ!」
ようやく搾り出した声にガチャリという固い金属音が重なった。まだ何かあるのかと飛び起きたけど、特に何も起こりはしない。
しばしの間を置いて、あっと声を上げた。すぐさま立ち上がると、ドアノブに手をかけ、引く。
「くっそ…!」
やっぱりだ!
扉には鍵がかかっていた。さっきの金属音の正体はこれだったんだ。
自分がハメられ、まんまと閉め出されたことに気付いた俺は、扉の前に立ち、声を張り上げる。
「イギリス! いるんだろ!」
返事はない。そりゃそうだ。
さっきの不気味な黒い塊も、妙な演出も、イギリスが俺を驚かせて出て行かせるためだったんだろうからね。あんなもの、現実にいるはず無いんだ。
でもここで倒れていたのは、待ち伏せなんかじゃなく、恐らく元々体調が悪かったんだろう。お髭のオッサン情報によると、今週忙しかったみたいだしね。でなけりゃあんな青白い顔しちゃいない。その上さっきのやつを準備して、更に悪化したんだ。
まったく、ハロウィンでもないのに、随分と気合の入ったものを準備したもんだよ。
俺は、苦々しい思いで目の前の、玄関の扉を睨みつける。
────そんなに、俺に帰って欲しいのか。
体調の悪さを押して、手の込んだ趣味の悪いクリーチャーを用意する程。
だけど、残念ながら俺は帰らない。