14の病
10
走る俺の足元で、沢山の葉っぱが舞う。
落ち葉だけじゃない。青々しい緑が目立つそれは、前からここにあったっけ? しかも、こんなに沢山。あの人が、庭の掃除を疎かにするはずないのに。
浮かんだ疑問は、だけど問う相手はいない。それも何も置き去りに、走り去る元オバケは、まるで道のように敷き詰められた緑たちの上を駆けていく。
どこか現実離れした情景を、じっくり眺める余裕なく追う俺の頬に、子供の足が舞い上がらせた葉っぱが一枚あたった。ひらりと、視界を塞いだそいつをてのひらではらうと、もうそこに子供の姿はなかった。
そして、緑の道の終着点には大きな窓。中は、最近イギリスと一緒にDVDなんかを見ていたリビングだ。
その目の前まできて、俺は一瞬立ち止まった。中は真っ暗で、ここからじゃなにがあるのかわからない。
────今さら何があったって一緒か。
もうあれこれ考えるのはやめにして、俺は窓枠へと手をかける。百回聞くより、一回見るほうが早いだっけ? とにかくつまりGo for itってわけさ。
ふっと息を吐き、地面を蹴って中へと飛び込む。窓ガラスを割るのは、やめておいてあげたよ。
真っ暗闇の室内に着地した俺の足元で、かさりと微かな音がたった。
柔らかな感触は、でも絨毯やラグなんかとは違う。なんだろう?
窓から射しこむ月明かりを頼りに見ると、それは落ち葉だった。さっき庭で見たやつが入り込んだのかなと思ったけど、あまりにも沢山あって、おまけにその下には、
「……土?」
呟いて、あたりを見回す。徐々に暗さになれてきた目には、信じられないものが飛び込んできた。
落ち葉の散らばる地面と、それを覆いつくそうとするように生えた草花。それらを木々が囲い、黒々とした葉の合間からのぞくあれは────星だ。
「え……なん…で…?」
呻きのような呟きに、ホウホウというふくろうの鳴き声がかぶる。そこは、薄青く暗い森の中だった。
いや、そんなはずない。振り返ると俺が入ってきた窓は確かにあって、外には見慣れた庭が広がっている。じゃあ、ここはリビングな筈だ。でなけりゃおかしい。
ぎゅっと一度目を瞑り、俺は頭をふる。
────こんな、おかしな、説明のつかないことが、怒るはずがない。
自分に言い聞かせるように呟いてから、恐る恐る瞼を持ち上げる。
再び目をあけると、果たしてそこは見慣れたリビングルームだった。
俺の口から、はっと短い息が漏れた。知らず浮かんでいた額の汗を拭う。
あんまりにもじめじめした展開が続くから、誰かから幻覚症状がうつったのかと思ったよ。ああ、でもあれは体質なんだっけ? と思ったところで、俺は室内に光るものを見つけた。
ここにあって当然なそれは、今夜二度目の登場、液晶モニターだ。テレビとも言うね。その他、室内にあるのは目新しいものは何も無い。見慣れた、古臭い、だけどやけに高そうな家具ばかりだ。ここに消えたはずの子供も、家主の姿もない。
それじゃあ後の展開は知れている。一人暮らしのくせしてファミリーサイズの36インチ型画面の中には、さて今度はどんな物語が繰り広げられるだろう。
正直、またかと思いながらも俺は近寄り画面を覗き込んだ。そして、眉をよせる。
────画面の中に広がる暗い森には見覚えがあった。
いや、見覚えがあるどころか、さっき見た幻覚の森そのままだ。そしてその中で、小さな影が動いている。あの子だ。
本を抱えた子供はこの部屋に消えた時と同じく、青く薄暗い森の中を必死に走っていた。カメラに背をむけているせいで顔は見えないけど、間違えようもない。木々の落とす陰の合間から射す月明りに照らされた、子供のくすんだ金髪が、冷たい光を放っていた。
しんと静かで暗い森の中を、小さな影は草をかきわけ、どんどん奥へと進む。だけど、体にあわない大きな荷物が邪魔なんだろう、どこか足元がおぼつかない。危なっかしい動きの子供を見ていると、映像とわかっていてもハラハラした。
そこへ、ひゅっと何かが空を切る音がした。
「ぎゃっ!」
小さな悲鳴と共に、小さな影が何かに蹴飛ばされたように、前につんのめる。
どこからか、石が投げられたんだ。そう気付いた時には、再び投げられた石が子供の小さな頭にあたっていた。
びたんと音が聞こえてきそうなくらい顔面をうちつけ、小さな呻き声をあげながら痛みに体を曲げる。
そこへ、さらにいくつもの石が投げつけられた。一緒に声が聞こえる。
『お前みたいな子供が、一人で森で暮らせるわけがない。この悪魔!』
『汚ったねぇー。どっかいけよ!』
『お前、ここにずっと前からいるだろう。………あたしが子供の頃から……気味が悪い。あっちへおいき!』
敵意に満ちたそれらをぶつけられても、子供は泣き声ひとつたてはしなかった。ただ、地面に額をこすりつけるように、頭をふせてやり過ごす。その様子に、これが慣れたことなのだと知れた。
───ああ、やっぱりそうなんだ。あの子は…。
思い至った答えに、俺が僅かに目を細めていると、画面の中で子供が再び立ち上がった。
用心深く、あたりを窺う。そしてどうやらもう石は投げつけられないと判断したのか、大事そうに本を抱え直し、暗い森の中を走り出した。
相変らず顔は見えない。たけど、やわらかそうな頬に、うっすら血が滲んでいるのがわかった。さっき転んだ時に擦りむいたんだろう。
それに対して、泣きもしないし、痛いともいわない。
でも、やっぱり辛いんだろう。荒い息に混じって、かすかな呟きが聞こえてきた。
『だいじょうぶ、だいじょうぶ。…だいじょうぶ』
自分に言い聞かせるように『こいつを届けるんだ』と呟いた声は弱々しく、でも願いに満ちて続く。
『そしたらきっと、いつか。きっと…』
それは、暗い森の獣道を、泥だらけになって走る子供が、息を切らせながら吐き出したほんの小さな願いごとだった。
いつか、人に石を投げつけられない、人に石を投げてはいけないよと教えてくれる人のいる日々がいつかくる。でも────。
────でも、果たしてその願いは叶ったんだろうか?
本当のところはわからない。だけど、テレビの中の映像は作りもので、だから子供はすぐにその人と出合った。
暗い森の奥の奥に入りこんだ子供は、唐突に立ち止まり、きょろきょろとあたりを見回す。そして木々の間に見つけた、夜の森の中でもひときわ暗い、真っ黒な何かの塊に向かって駆け出した。
大きな柱のようにそびえ立つ黒い塊は、なぜだか見覚えがある。どこで見たんだろうと俺が考えている内にも子供は駆けて、やがてそいつの目の前へと辿り着いた。そしたら、黒い塊は人の形になった。
その黒い人型に子供は、抱えてきた本を差し出す。真っ黒な腕が、ぎぎっと音を立てそうなぎこちない動きで持ち上がり、ドロドロと何かを垂れ流す指先が本に触れた。
するとそこから、触れた場所からコーティングが剥がれるように黒いものが落ちてゆき、人型に色がつく。みるみる内にそれは広がって、黒い人型は一人の男になった。
画面に映し出されたその姿を見て、俺は息を飲む。