14の病
随分久しぶりに見た気がする。実際は、ほんの数時間ぶり…いや、こうして映像でなら今夜何度も見たその顔を、俺は食い入るように見つめる。
するとやがて、黒い泥を脱ぎ捨てた男の口から優しい声が零れでた。
『…よくやったな』
いつか聞いたことのあるその声の主は、片膝をついて子供の前にしゃがみこみ、自分と同じ色の髪についた草や埃をはらう。
声と同じくらい優しいその手付きに、子供は後姿でもわかるくらい、はにかんで俯いた。もしかしたら、少し泣いてたかもしれない。かすかに鼻をすすり上げた子供の頭を撫でながら、そいつは───イギリスは、
『偉いぞ、アメリカ』
そう言った。
瞬間、イギリス以外のものが歪み、すり替わる。
暗い森は消え、ひろがる広大な草原に、子供の真っ白な服がひるがえった。
月明りに冷たく光るくすんだ金色から、太陽に明るく照らされた淡い金へとかわった小さな頭をもう一度撫でた手は、いっそう優しげで、惜しみない。
それは、ついさっきまで森を走っていた子供には、与えられなかったものだ。
それに、俺がかすかな引っかかりを覚えていると、画面の中でイギリスが立ち上がった。見上げる空色の目が、一瞬画面に映る。
だけど直ぐに画面は切り替わって、
『じゃあ、帰るか』
言葉と共に手が差し出された。
俺の記憶で、同時にイギリスの夢のような映像は、客観的に見れば心温まる美しい情景だ。だけど、今夜の悪趣味な上映会と、直前のシーンからの流れを思うと、ある疑問が浮かぶ。
───これをあの人は、いったいどんな気持ちで差し出したんだろう?
だってこの、無償の愛情と差し伸べられる手は、いつか自分が探して求めて、でも得られなかったものだ。
こんな風に思ったのははじめてだ。そして、それは俺を妙に焦らせた。
イギリスは、小さな俺がかわいくて大好きで、守ってやろうと思ってた。立場上の話しはまた別に、個人的な意味でのそれに嘘はない。
だけど、だけどさ。これじゃ、まるで────。
見てはいけないものを見てしまったような、嫌な感覚。これまでの自分の認識を、否定されたような気分になって、知らず握り締めたてのひらには、びっしょりと汗をかいていた。
そんな俺をおいて画面の中、歳の離れた兄弟は仲良く手を繋ぎ、歩き始める。
映画のラストシーンなら、上出来だろう。綺麗なその絵に、だけど俺の中では焦燥感ばかりが膨れ上がる。
離れていく二人との距離に比例してそいつは膨らみ、やがて耐えられなくなって思わず叫んだ。
「イギリス!」
カメラに、俺に向けられた画面の中の背中に向けた声が、静かな部屋に響きわたる。それに答えるものはいないはずだった。
だけど、画面の中のイギリスは、まるでこちらの声が聞こえたかのように足を止める。
「……え?」
偶然かと思ったけど、こちらへと振り返った緑の目は、まっすぐ俺へと向けられた。
最初浮かんだ驚いた表情は、でも直ぐにしかめっ面にかわって、その口からは唸るような声がでた。
「………まだいたのか。帰れっていったただろ」
突然立ち止まり話し出した連れを、子供が不思議そうに見上げている。
俺もまた驚き、何か言おうとしたけど、それより先に大音量の声が叩きつけられた。
「帰れ!」
びりびりと窓ガラスを揺らすほどの声が、室内で反響する。
同時にぶちんっと音がなり、イギリスの姿は草原と子供を連れてかき消えた。
後に残ったのは真っ暗になった画面と静寂。
そして、俺一人だけだった。
唯一の灯りが消えた部屋の中、俺はじっと暗闇を見つめる。
しばらくそうしていても、テレビ画面は闇と一体化したままだ。悪夢のような映像を映し始めることもなければ、小さな誰かが、ヒントに石を包んで投げてくることもなかった。上映会はどうやらこれで終了らしい。
エンドロールも無しに、唐突に終った三部作は暗く難解で、俺はその意図するところに今夜ずっと頭を悩ましてきた。すべて見終わった今も、その多くはわからない。
ただ、俺なりに解釈するなら。
散々嫌な目にあって、踏みつけられた子供は、やがて大きくなって仕返しをした。自分と同じ不幸をふりまいて、やがて見つけた自分と同じ生き物の、小さな子供に自分を重ね、過去に手に入れられなかったものを、与えてやろうとしてた。
そんな物語だった。
もちろん、製作者の意図とは違うかもしれない。
だから、俺も自分に向けられた愛情のすべてが、イギリスの生い立ちからきたものだとは思わない。自分の得られなかったものを、子供にって考えは別に悪いことじゃないだろう。……そりゃ多少は、ショックだったけどさ。
でも、それより問題なのは、あの人の中では、そこで話が終ってるってことだ。
現に、あの人は小さな子供だけをつれて、草原と共に消えた。今の俺に「帰れ!」って投げつけてさ。
でも、気付いてるんだろうか? その話は、手を繋いで草原を歩いていった二人は、あれから20年もしないうちに決別するんだ。雨の日にね。
そしてその日の出来事は、一番最初、あのゲストルームで見た暗い過去の中に含まれていた。
つまり、暗い過去からはじまった物語は、知られたくない残酷な自分、そしてようやく最後で見つかった希望と続き、だけど結局物語はループして、結局最初に戻る。
なんとも悲劇的な構成だ。これを意図してやったんだとすれば、あの人、脚本でも書いてみたらいいんじゃないかな? 俺は絶対撮りたくないけどね。
言う相手のいない皮肉を胸の中で呟いて、俺は奥歯を噛み締めた。
決して辿り着けないハッピーエンドを夢見て、ぐるぐる廻る悪夢とほんの僅かな希望を繰り返す。しかも、それでいいって、それしかほしくないんだってさ。
まったく、馬鹿げてるし、馬鹿にしてる!
「…………いや、無視されてるのか」
思わず口をついてでた言葉に、それまで腹の底を焼き焦がしそうだった苛立ちが、一気に空しさにとってかわる。
まるで肺に穴があいたように、冷たい空気がそこを満たした。
だってあんなの、今の俺はいらないっていってるようなものじゃないか。
いや、事実何度もあの人は俺へ帰れといっていた。いつもの強がりか、勘違いだって思ってた俺の方こそ、もしかして勘違いをしてたんだろうか?
あの人が相変わらず、子供扱いでも弟としてでも、俺のことを好きでいるなんて。
今まで信じて疑いもしなかったことを、根底から覆されたような気分になって、俺はぐっと拳を握り締める。恥ずかしいだなんてとおり越した、酷い焦燥感だけが体中に湧き上がっていた。今すぐ駆け出して、そんなの嘘に決まってると叫んで確かめたい。
だけど確かめるべき相手はここにいないんだ。
それどころか、こちらに背を向けて去ってしまった。
そう思うと、喉の奥にぐっと何かがせりあがってくる。息苦しく喉と胸を塞ぐ塊を、誤魔化すように、俺はうつむき、握っていた手をジャケットのポケットに突っ込んだ。
その手に、何か小さなものがあたる。
「あ……」
俺はそいつを慌てて取り出だした。
暗い室内に射すかすかな月明りに、鈍く光る鍵。