14の病
11
あたりは、どろりとした闇に覆われていた。
その真っ暗闇の中、俺はやっと手に入れた本の表紙を、てのひらで撫でる。
ザラリとした感触がして、表面に少し砂がついていたことに気付いた。
てのひらに付いたそれを払いながら、俺は独りごちる。
───これを手に入れてくれたのは、あいつだったんだ。
でもなんでまだ、こんなところに。
一度家に入った時は、悪魔に取り込まれかけた俺を見て、青くなって扉を閉めたくせに…。
そう思うと同時に、ざわざわと辺りの闇が不快な音を立てて蠢く。俺は深呼吸して、思考を振り払いぐるりを見回した。
すっぽりと真っ暗な闇に囲まれ、その中心だかどこだかわからない場所に俺は一人で立っていた。
───そう、立っている。
この本を手に入れて、ようやく立つことができたところだ。もう少し前までは、上も下もなかった。ここでまた飲み込まれるわけにはいかない。
こいつは獲物の心の隙をついて入り込む。それどころか、怒りやそれの元になるような嫌な記憶引っ張り出して、平常心を失わせたところで襲い掛かってきたりする。
悪魔としてはよくある手だが、よくあるものはつまりそれだけ効果的なものだからだ。特に苛立ちや怒りの元になる記憶なんざ、誰にだってあるだろう。
だから、俺はそれ───腹しい、嫌な記憶を、綺麗さっぱり忘れることにした。
そんなことできるのかって?
普通はできねぇ。……つーか、やれるならとっくにやってる。
だが、悪魔に飲み込まれかけた状態ってのは普通じゃなく、殆ど精神体になりかかった俺にとってそれは簡単なことだった。
肉体が不確かなら、存在は記憶と意識で構成されている。だからつまり、自分の一部(記憶)を切り離していけばいい。
そう決めて、早速行動に移した。
すると切り離した記憶は固まって、人の形をとった。手始めに切り離した記憶の大部分が、過去のものだったせいか、ガキの頃の俺によく似たそいつを見て、俺はしめたと思った。
この人型を介して、誰かにこの異変を伝えよう。そして、何らかの手がかりなりを渡せればいい。
それじゃあと、俺は捨てれるならば、ゴミ屑同然の記憶たちに悪魔の正体に関するヒントを紛れさせて次々と切り離した。
誰か……あいつは帰っちまっただろうが、他の、上司あたりが気付くかもしれない。
そうして、自分が何者かや目的を見失わない程度に、気に食わない思い出をどんどん捨てていきながら、俺は反撃の機会を窺っていた。
助けが欲しいのは本当だったが、お祈りしながら幸運を待ってても、それだけじゃ何も起こりはしない。それに、なるべく自分の手で報復してやりたかったってのもあった。
俺をこんな目に合わせやがったんだ。塵あくたくらいになる覚悟は、無くてもしてやる。
そして、その機会は間も無くやってきた。
真夜中に近づいた頃、悪魔の力が弱り始めやがったんだ。原因がどうとか、そんな疑問を持つより先に、俺は行動をおこした。
魔道書を外へ出したんだ。それまでなら、流石に悪魔が気付いただろうが力の弱った奴は、それをくるんだ記憶の血生臭さばかりに気をとられ、結果、俺は魔道書を外に送り出すことに成功した。
あとは外に出た人型に、それを使わせればよかったんだ。が、そこで俺の記憶は品切れになった。
残ったのは、自分を見失わない為の必要最低限の情報と、小さな子供と過ごした草原の思い出だ。
結局、俺はどうしても捨てられなかった記憶に、意識を集中させ待つことにした。人型といえど俺の一部だ、何とかするだろう。
………いや。
本当は──── 本当は、疲れて少し休みたかった。
悪魔に飲み込まれて引っ張り出された記憶は、ろくでもないものばかりだった。随分たった今でも、笑い話にもできない、口に出したくもない。そんな記憶だ。普段は思い出さないようにすらしているそれを、立て続けに見せられた挙句。切り離すときに、何故か目の前をちらつくんだ。これはお前の一部だろう? 本当に忘れていいのか? ってな。
結局二度もそれを見る破目になって、随分嫌な思いをした。切り離し忘れても、ささくれ立った気持ちはそのままだ。
だから、疲れて、疲れて。
なら、少しくらい優しい過去に浸ったっていいだろう。そう思ったんだ。
もし、これが悪魔の本当の狙いだったとしたら、俺はまんまと嵌っていただろう。
なぜなら、意識を集中させた草原と子供の記憶は、たとえ、手ひどい終わりが待っていると知っていても、離れ難いものだった。
しかもこの時、俺は記憶の殆どをなくしていたんだ。
だが、優しい夢は長くはやはり続かない。ついに魔道書が届けられた。
大事にそれを抱えて持ってきた、人型は随分力を消耗したんだろう。ぼろぼろになっていた。渡された魔道書を受け取ると、切り離した記憶も戻り、そして改めて見たその姿は、過去の自分そのものだ。思わずあの頃誰も差し伸べてはくれなかった手を伸ばす。
頭を撫でると、はにかんで笑った姿が小さなアメリカに重なった。
───ああ、そうだった。
俺は、昔もこうやって小さな子供に手を差し伸べた。自分のような辛い思いは、出来るだけして欲しくなかったんだ。
きらきらと光る空色の目を見ていると、何もかも忘れそうになる。いや、忘れてずっとこのまま…。
小さな手をとって歩き出すと、ようやく手に入れた魔道書のことすら忘れそうになった。その時。
「イギリス!」
名を呼ばれ、反射的に視線を向けたその先に、あいつがいた。
まさか、と目を疑う。だけど、確かにあいつはそこいて、焦ったような顔でこちらを見ている。
夢から覚めた気分で……いや、実際夢から覚めて俺は、いつの間にか薄まった、夢と現実の境目の向こう側に立つあいつを見る。そして、悪魔にコケにされているという、腹立たしい現実を改めて認識して、思わず口から唸り声がでた。
だが、なんでこいつはここにいる?
その問いに、戻ってきた人型が見せたのはヒントや魔道書を手に入れるためにこいつが力を貸してくれたという事実だった。
でもなんで、こいつが?
大量の疑問符が浮かび、次にちらりとよぎった可能性にそわそわと落ち着かない気持ちになった。
そんなはずない。期待するな、するだけ無駄だ。
何度も否定するが、優しい夢で遊んでいる間、穏やかだった俺の意識みるみる内に混乱しはじめ、それを抑えるように低い声をだした。
「……まだいたのか。帰れっていったただろ」
言い捨てると、相手が驚いたように目を見開いた。手を繋いだ子供と同じ空色の目だ。
きらきらと光る色はそのままに、生意気にでかくなって、なりすぎて、どこでも勝手にいっちまう。
なのに、なんの気まぐれでここにいた? なんでだ!
抑えようとした混乱は、結局俺の全身に毒のようにまわって、なんで、どうしてと、ぐるぐる回る思考を断ち切る、唯一の方法を俺は叫ぶ。
「帰れ!」
いなくなっちまえ!
何を考えてるか全然わからない、だけどかわいくてどうしようもないお前に振り回されるのは、もう沢山だ。
だけど、本当に背を向ける姿を見る勇気はなく、だから自分が先にその場を立ち去る。
そうして俺は、優しい夢から飛び出した。
ここで場面はようやく冒頭へと戻る。