14の病
やがてプロイセンの声は遠くなり、聞こえなくなった。だけど、局地的な突風くらいでどうにかなる奴じゃないだろうと、俺は振り返りもせず、風に逆らって足を進める。
イギリスは本を片手に何か妙な動きをしつつ、何度か、取り込まれるぞとかなんとか言ってきたけど、知ったこっちゃない。
ごうごうと嵐の中のような廊下を進み、やがて俺は手を伸ばした。
その先にあった自分の腕より幾分細いそれは、俺の手を振り払おうとしてたけど、構わず掴む。ようやく捕まえた。
そのことに俺は、微かに安堵の息を吐く。
そんな俺の反応に、今までずっと気付かないままの相手が、こちらを見上げてくる。焦ったような、だけどそれだけじゃない、複雑な表情を浮かべたその人は、表情に相応しいうろたえた声で、またしつこく退出勧告を口にする。
「お、お前、だから帰れって……」
続いた、なんで…、という呟きに、俺は噛み付く。
「なんでだって!?」
君こそなんでわからないんだ!
こうも風が強くなけりゃ、俺はその場で地団駄を踏んでただろう。まったくわかってない。なんで、俺が病気の治療のために、ここに通ってたのか。こんなトラウマとホラーと謎だらけの家から、さっさと帰らなかったのか。
なんだって、そんなこと位わからないんだ。この人は!
怒りにまかせて、全部ぶちまけてやろうと、再び言葉を口をひらく。
ごうごうと相変らずうるさい風音も、強風でぐしゃぐしゃになった髪も、なにも気にならならない。
ただ、自分が息を吸いこむひゅっという音だけはなぜだかよく聞こえて、だけどそれは直ぐに吐き出された。
ずっと言えなかった言葉と共に。
「そんなの、君が好きだからに決まってるじゃないか!」
「………………え?」
緑色の目が見開かれた瞬間、廊下の奥からひときわ強い風が吹き出した。
「くっ…!」
「わっ…」
叩きつけるような風圧に、あちこちから軋むような嫌な音が立つ。
視界がぶれるくらいのその強で、咄嗟に身をすめた俺の前でイギリスの体が揺れる。あっと思った時にはもう、倒れ掛かっていた。
瞬間、息を飲んで俺は掴んでいた腕ごと、イギリスを自分の方へと引き寄せる。
いくつかの音と、決して小さくはない衝撃が俺の体に走った。
「…っ!」
一瞬の間の後、思わず瞑っていた目を開け下を見ると、俺の胸の辺りに顔を半分埋める
格好のイギリスがいて、俺はほっと息を吐く。
するとその振動が伝わったんだろう、イギリスの体がぴくりと動いた。
「…は、はなせ!」
なぜだか焦ったようにもがき始めたけど、俺はそれより気になる事があった。
てっきり抱き寄せたと思ったんだけど、なんでこんな上半身だけ俺に預けるみたいなへっぴり腰な格好してるんだ?
訝しく思った俺が、つむじ越しにイギリスの足元を見ると、そこには黒いドロみたいなものが纏わりついていた。見たところ、夕方に玄関に入ったときにあった、ドロドロのクリーチャーの一部だみたいだから、片付ける時に溢しでもしたんだろう。こいつのせいで、身動きがとれなかったんだと思ったところで、思い出す。
そうだ、ここはトラップだらけの家だった。
この風だって、大方そのろくでもないトラップが誤作動を起こしたに決まってる。
そう思うと、今夜自分があった悪趣味な仕掛けの数々を思い出して、更に腹が立ってきた。まったく、大事な話をしてたのに。
苛立ちと怒りは頂点に達していて、そろそろまともな思考はできなくなってきているのを自覚しつつも、俺はイギリスの背中に回した手に力を込めた。
「へぇっ…!? お、おい!」
イギリスが妙な悲鳴を上げる。俺はそれを無視して、自分の腕を回したものを持ち上げにかかった。つまり、イギリスをだ。
足に纏わりついていた黒い泥は、何で出来てるのか知らないけど、やけにしつこくへばりついてた。無理に引っ張り出そうとすると、イギリスが悲鳴を上げる。
「いてっ! やめろ、ちぎれる!」
流石にそれは不味いと、俺は上に引っ張る力を緩めて、泥のほうを靴で強く踏みつけると、そいつはぐしゃりと崩れて床に広がった。
ずるりと吐き出されるように、自由になったイギリスの足は、だけど地面につくことはない。逃げ出されても不味いからね。
肩に担ぎ上げられた人は、降ろせだのなんだの言って暴れてた。けど、俺が次に持ち出したものを見て、動きを止める。
「え……それ…」
呆然とした声を聞きつつ、俺はベルトから抜き出した銀色の銃のトリガーセーフティを外した。そして銃口を向けた先は、真っ暗な廊下の奥だ。狙いを定める必要もない。
どこから風がでてるか、どんな仕掛けなのかきちんとわからないけど、壊すのは簡単だ。風が止まるまで撃ちまくればいい。そう思って、俺は引き金に指をかけた。それでも銃弾が発射される直前、俺は家主に一言断りをいれた。
「修理はするから、怒るのは後にしてくれよ」
言うが早いか、聞きなれた発砲音と共に、俺の右腕に衝撃が走った。
撃ち出された銃弾は、風を切って奥へと吸い込まれていく。その先で一瞬金色の火花が散ったかと思うと、悲鳴みたいなすごい風音と共にまた強い風が吹き出した。
「っ…」
「うわっ!」
担ぎ上げたイギリスの足が風に煽られて、間抜けな悲鳴を上げてたけど、飛んでいきはしない。風はそれが最後の抵抗だったように、徐々に弱まっていったからだ。
そうして、静かな夜の家に残されたのは俺達二人だけだった。
担ぎ上げていたイギリスを、床に降ろすと、呆然とした呟きも一緒にその場に落ちた。
「おまえ……なんで……」
この人にしちゃ珍しい、ぽかんとした表情といい。声の調子といい、呟きは殆ど独りごとみたいなものだったんだろうけど、丁度いい。
さっきも殆ど同じことを言ってたね。OK、じゃあそこからまた始めようか。
「なんでかって?」
俺はそこでいったん言葉を切る。さっきこれに続けた言葉は、改めて口にするとなると随分勇気が必要だ。だけど俺はヒーローだからね。勇気なら有り余ってる。
だから俺はもう一度、相手の目を見て、
「そりゃ……君が好きだからだよ」
少し語尾震えた。もしかしたら、足も少し震えていたかもしれない。そんな俺の視線の先で、緑色の目が見開かれた。
殆ど消えかかった風は、それでもまだ俺と、そして俺の向かいに立つ人の髪を微かに揺らしている。何故だか少し、辺りが明るくなりはじめた気がした。
その中で、光る緑の目が眩しくて、俺は目を細める。
イギリスの唇が少し震えて、微かにひらかれたそこから、どんな言葉がでてくるのか。
ただ、どくどくとせわしなく響く、自分の心臓の音だけがうるさかった。
ああ、だけどやけに眩しいな。どうしてだろう、まだ朝はきちゃいないだろうに。
そう思うけれど、頭の中が真っ白で、何も考えられない。
風は完璧に止まっていた。
そしたら頭の中どころか、視界まで真っ白になって、その白さに埋め尽くされるように───。
─────俺の意識は途絶えた。