14の病
でも、確かにあいつは言ったんだ。一度は聞き違いかと思ったが、二度目には、少し語尾が震えてた。
だから、あれは夢じゃない。そして、あいつも本気だったんだ。
そして、あの言葉がどういう意味を持っているのかにも、薄々感づいてはいる。
でも、じゃあいつからだ? きっかけは?
どうせ全部夢だったで終らせるつもりのくせに、俺はぐるぐると考え続ける。
戸惑いと混乱で、それ以外の感情は浮かんでくる隙がない。
そして堂々巡りの混乱の最後は、いつもあの時、消滅する悪魔の最後の光に照らされた空色の目へと行き着いた。声が震えてたくせに、じっとこちらを見つめ、気を失うまで逸らされることのなかったそれが俺の脳裏をよぎるたびに、落ち着かない。
眩しげに目を眇める仕草が、やけに大人っぽく、まるで知らないやつのように見えたからかもしれない。
でも、同時に腹の底にもやもやと黒い感情が湧く。それが何かを確かめるのは、酷く恐ろしいことのように思えた。
だから、あれは夢だった。そういうことにする。
卑怯な逃げだとわかってはいたが、昨日突きつけられたあいつの言葉は、俺の許容範囲を遥かに超えている。国際問題だのなんだのより問題だ。
落ち着かない、得体の知れない何かをさっさと断ち切ってしまいたい。
思考の渦に沈み込んだ俺を、現実にひっぱり戻したのは、古い置時計の鐘の音だった。
ボーン、ボーン、と重い音に顔を上げ、時計の針を見る。11時だ。
そろそろ、あいつを起こしに行ったほうがいいだろうか? いつもなら、いつまで寝てんだとか何とか言って、起こしにいってやる。
だけど、昨日あんなことを言われたせいで、俺はすぐに動き出せずにいた。ただ座っていることもできず、室内を歩きまわってっていると───。
ばんっ、と上から音がした。
思わず飛び上がりそうになりながら耳を澄ますと、今度はドタドタと大きな足音が廊下を移動しはじめる。それは、物凄い勢いで階段を降りきって、リビングへと近づいてきた。
俺は焦って、だがそれも一瞬だ。すぐさまそいつは現れた。
扉が突き破られるように開いて、部屋に飛び込んできたやつに、俺はぐっと息を飲む。
そして、それから、ゆっくりと口をひらいた。
「…何時まで寝てんだよ」
声は上擦っていなかっただろうか? 変な顔をしてはいないだろうか?
そんなことばかり考えながら、明け方にベッドに寝かした相手を見る。そいつはその時の格好のまま。Tシャツにジーンズで、髪に少し寝癖がついている。
眩しいのか、起きぬけなせいか、ぱちぱちと瞬きを繰り返しながらいつもどおりの部屋と、俺を眺めどこか呆然としているそいつ───アメリカに俺は言う。
「……突っ立ってねぇで、早く顔洗ってこいよ」
するとそれがきっかけになったのか、微かにアメリカの唇が動いた。
「……昨日は…」
独りごとのようなそれを、遮ったのは俺だ。
「お前、いつも言ってるだろうが。怖がって帰れなくなるくらいなら、あんな映画見んなよ」
予定通り、ホラームービーを見て泊まっていった翌日という設定のもとで話つづけながら、俺は密かに相手の様子を窺う。
アメリカは、ほうけたように室内を見回している。だが、徐々に目が覚めてきたんだろう、慌ててかけきたらしい眼鏡のゆがみを軽く直すと、くっと目を眇めた。
その目が昨夜見たものと重なって、何故だかどっと俺の心拍数が上がる。
「…なんだ? まだ寝ぼけてんのか?」
内心の動揺を何とか飲み込んで、言った俺を、だが相手はもう見ていなかった。
「? おい…」
聞いてるのか、と問う前に、アメリカは動き出す。
大またに、殆ど走るようにしてリビングを横切って窓を開け、ひらりとそこを飛び越え外にでる。後は止める間も無く、庭で一番大きな木のあたりへと駆け出した。だけど、目的地はそこではなかったらしく、その少し手前の小さな木の影にアメリカはかがみこんだ。
なにを…。と思った俺の目に次の瞬間、木の影からアメリカが引っ張り出したものが飛び込んできた。
「あっ…」
思わず小さく声が漏れる。
それは、二冊の本だった。
どちらも見覚えがある。そりゃそうだ。元々この家にあったもので───昨晩も見た。正しくは、準備した。
あの小さな俺の人型と共に、外へのヒントとして切り離した記憶に紛れさせたそれは、アーサー王伝説と悪魔や精霊達を集めた文献だ。
運び出させた手段は別に、そのもの自体に魔法の力はない。だから消えずに残っていたそれを持って立ち上がった奴が、ゆっくりと顔をめぐらせる。
空色の目と、一瞬視線がかちあって、俺は咄嗟に顔を伏せた。
────畜生、ばれた……。
…いや、まだだ。まだ何とか上手く言い逃れられる。
不自然に視線を反らした時点で、そんなことはもう不可能なはずなのに、焦って思考回路が麻痺した俺はまったく気付いちゃいなかった。
ただ、上手く働かない自分の頭に舌打をしたい気分で、必死に言い訳をひねり出そうとする。いつの間にか握り締めたてのひらに、大量の汗が滲み出ていた。
やがて、とんっと軽い音がして、部屋の中の空気が揺れる。
誰かが───いや、あいつが戻ってきたんだ。
途端に全身が強張って、顔を上げられないでいる俺の耳に足音が響き、やがて伏せた視線の先に見慣れたスニーカーが映りこんできた。
少しくたびれたそれには、泥と緑の汚れがついている。
それが、千切れた葉っぱのかけらだと気付いた時、上から声が降ってきた。
「小さなオバケと、かくれんぼするのに邪魔でね。かといって見つかっても不味いし、あそこに隠してたんだよ」
お陰で始末されなかったみたいだ、と固く、淡々とした声が聞こえ、本が俺の視界にはいるよう差し出された。
ああ、もう逃げ場がない。
だがそんな思考とは裏腹に俺の口からは、往生際の悪い言葉がこぼれでる。
「オバケ? な、なんだそりゃ。お前、何か妙な夢でも…」
見たんじゃねぇか、と続けようとした俺を、叩きつけるような怒鳴り声が遮った。
「イギリス!」
鼓膜がびりびりと震え、驚いて顔を上げると、そこには今まで見た事もないような、険しい顔をしたアメリカがいた。
眉間に深い皺を刻んで、こちらを見下ろしている。
怒りか苛立ちか、あるいはその両方をこいつが感じていることは確かだ。そして、そのせいでどうせでもでかい体が、さらに大きく見え、俺は思わずびくりと肩を揺らした。
すると、何かを飲み込むように顎を引いたアメリカは、目を閉じて、短く息を吐く。
再び瞼を上げた時には、恐ろしい程の怒気は、少しなりをひそめていた。
だがそれでも、口からこぼれでた声は固く、眉間には普段こいつとは無縁のはずの、深い皺が刻まれたままだ。
「俺は昨日、ここで妙なものを沢山見て、散々な目にあって、それから…君に話をした。これが、その証拠だよ」
言いながら、手に持った本を軽く揺らす。
決定的な言葉と物証を突きつけられてもなお、何も言えないでいる俺へ、アメリカもしばらく黙り込む。
だけど、このままじゃ埒が明かないと思ったんだろう。近くにあったローテーブルに本を置き、「それで」