14の病
悪意の無い方と、有る方。どちらに加えられた危害がより堪えたか。答えは、どちらでもいい。俺もやる側に廻ったことがあるからな。答えなんざ出しても空しいだけだ。
どうしようもない考えを、軽く頭を振っておいやり俺は再び口を開いた。
「…とにかく、アメリカがこっちにこないようにしろよ。俺からも、今週は忙しくなると言ってはおく」
『へいへい』
「……一応いっとくが、あいつに妙な真似しやがったら、ただじゃおかねぇからな」
隙あらば、股間に花を咲かせてやがる変態野郎に釘を挿す。てっきり直ぐに言い返してくるかと思ったが、予想に反して妙な間が空いた。
『………お前はしなかったの? もしくは、された?』
はぁ?
「何でお前に妙な真似したり、されなかったりしなきゃなんねぇんだよ。やめろ、毛ジラミがうつる」
『いねぇよ!』
「いや、よく確認してみろ。それだけ毛だらけなら、どこかにいるはずだ」
『だから、いないって! マジでっ!! つーか、お前の目の上にも、でっかい毛虫ついてんだろ。そこにシラミが』
「いるか馬鹿! 毎朝手入れしてんだよ」
『え…それマジで……?』
……下品な話ですまない。
その後少し続いた怒鳴り合いの最後は、本格的に連れに置いていかれそうになったフランスが『あ〜あ〜はいはい。そんじゃあ、色んな意味で臆病者のヒーローは、しっかりお守りしといてやるよ! お兄さんやっさしい!』と締めて終った。
しかし、フランスの野郎やけにムキになってやがったな。これは本当に毛ジラミを…?
確かめたくない疑問を、俺は胸にしまいこみようやく玄関の扉へと向かう。
「じゃあ、終ったら一応連絡する」
『へーい。じゃあな』
いい加減な相槌を聞きながら、俺は扉を開き、暗い室内へと足を踏み入れた。
すると早速、出迎えのつもりか、廊下の奥で黒い影が表れる。ゆらゆらと揺れるそいつを睨みつけていると、切ろうとしていた電話から、馬鹿の内の一人。妙な訛りも、毛ジラミ疑惑も無い奴の声が聞こえてきた。
『あ、それもしかしてあいつからか?』
今更気付いたのか、さっきから俺の名前(人の方のだが)を散々いってなかったか? と少々呆れていると、何を思ったか『ちょっとかわれ』と携帯を奪い取ったらしい奴が挨拶も無しに話を始めた。
『おい』
「…なんだ?」
『前に食ったお前の菓子? あれは、流石の俺様も死ぬかと思った』
「う、うるせぇ馬鹿!! 切るぞ!」
今度こそ地面に携帯を叩きつけようとした俺を、相手が引き止める。
『いやまて! いいか、病気でもな俺はこんなにイケメンだ!』
「………」
…よくわかりたくも無いが、これは一応なぐさめようとしているのか? というか、こいつも病気だったのか。
そこまで考えて、俺はそういえばアメリカが、プロイセンも同じ中二病なんだぞ! と言っていたことを思い出した。しかもこいつは先天性なんだそうだ。訳がわからねぇ。
首を捻る俺に、(勿論電話越しじゃ見えやしねぇだろうが、たとえ見えていたとしても同じだったろう)構うことなく相手は続ける。
『だから、安心しろよ! イギ……アーサー。じゃあな』
いうだけ言って携帯を持ち主に戻す事無く、すぐに通話を打ち切った。
その瞬間だ。視界の端で廊下の奥が、暗く閃いた。
同時に、生暖かい風が吹きつけ、廊下の奥から噴出したものが床を、天井を、壁を這う。まるでダムが決壊した時のように流れだしたそれは、暗い暗い闇色の何かだ。
そいつの中心。ボコボコと、嫌な音をたてて脈打つ闇の中に、やがて二つの光りが現れた。
白目の部分は、何度か見た汚らしく黄ばんでいた色ではない。真っ黒に染まったそれに囲まれた虹彩は、禍々しい光を放つ金色だ。
────なんだ?
そいつが何であるかは、わかっている。最近住み着いた性質の悪そうな精霊だ。
だから、さっきの問いは別の───なぜ目の前の精霊が、こんなにも力を増しているのかに対するものだ。だが突然の事態の原因を、悠長に考えている暇も無い。叩きつけられる瘴気に息を飲み、睨みつける俺の前で、黒い顔を裂くかのように大きな口が浮かぶ。
【……さ? あ…ーサ? アーさー…】
がらがらとひしゃげた声で名前を呼ばれ、顔を顰めた。答える義理は無いと、黙っていると、真っ赤な舌を見せ付けるように大きく開かれた口が、にぃっと更に大きく裂ける。
【きゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃーーー!!!】
頭が割れそうな笑い声がこだまして、思わず耳を押さえた。
───本当に、なんだってんだ…!
内心悪態を吐きながら、だが同時にどこかほっとしてもいた。
ここに、アメリカがいなくてよかった。
もしかするとこいつなら、魔法やその類のものが効きにくいアメリカでも、(魔法は、信じていないものには、ききにくいからな)何かしら影響を与えられるかもしれない。
影響が与えられないにしても、また妙な病気の症状だと思われるだけだ。
……それも、いつまで続くか知らねぇけどな。
一瞬状況を忘れて、横道に逸れそうになった俺の思考を、不快なひしゃげ声が引き戻す。
【わすれる! わすレる!!】
まるでこちらの考えをよんだかのような台詞を吐いて、金の目の精霊────いや、こいつはもう悪魔といっていいだろう。そいつは、ニヤニヤと笑い続ける。
「……っ…ちっ」
悪魔の相手をするだけ損だ。元々、話なんざ通じないだろうことは、見てもわかる。
軽く舌打を漏らし、体勢を立て直した俺は、改めて目の前に広がる闇と対峙する。
突然のことに準備もできず、手持ちの魔具も少ない。対する悪魔は、もう廊下全体を埋め尽くさんばかりだ。
【ツらい かなシい】
「…っうるせぇ!」
掌に滲む汗を握りしめながら、怒鳴り返すと、また耳障りな笑い声が響く。
【キャひゃっ キャヒャヒャヒャヒャヒャヒャァ─────】
前より長く続いたそれに、たまらずまた耳を塞ぐが、あまり意味はなかった。指の間をすり抜けて鼓膜を揺らし、頭の中を直接かき回すような音に、思わず足元がふらつく。
不味いと思った時には、俺は地面に両膝を付いていた。
「う…っ……」
途端に感じたぬちゃりとした感触は、いつの間にか足元を埋め尽くしていた闇だ。
ぐちゃぐちゃと生き物のように蠢くそいつらは、これを好機とばかりに俺の体へと這い上がってくる。なんともいえない不快感と同時に、力が抜けていくのがわかった。
そりゃ悪魔の体だ、触れられていい影響が出るわけが無い。慌てて立ち上がろうとするが、遅かった。
むしろ、身じろきしたことで、さらに闇の動きは早くなりあっという間に肩まで飲み込まれ、それでも俺は視線だけを悪魔へ向ける。
もう、この場で光る部分はそこだけとなった金色の目からは、ぎらついた光りが、吹き上げるようにらんらんと燃えていた。
そいつはひしゃげた声で繰り返す。
【かなシい わスれる ワスレル】
繰り返される言葉の数と比例して、俺の意識はだんだんと黒く染められていく。これがこいつの手なのか、獲物の意識を無くさせて取り込むつもりなんだろう。
「ちっ…くしょっ……」
油断した。いや、最初からもっと注意すべきだった。