intermezzo ~パッサウ再会篇6
「ぼくは…アルラウネに呼ばれて、今後アレクセイについてロシアへ渡ってどうするつもりかと聞かれた。ぼくは…その問いかけに何も答えられなかった。だってぼくの人生は、その日その日を何とか秘密を守り通してやり過ごす事だけに費やされていたから。自分が生きたいように生きるなんて言う選択肢は…ぼくにはなかったから。答えられないでいるぼくにアルラウネは、女の子に戻って、それからロシアで暮らす、アレクセイと人生を共にする為の知恵と知識を身につけなさいと、未来への道を示してくれた。それで…ぼくは本来のぼくに、女性に戻って、アルラウネから色々な事を授けてもらったんだ。それはロシア語やマルクスの思想、ロシアの歴史といった事から、今まで15年間ぼくには縁のなかったドレスの着こなし方、歩き方や所作、お化粧の仕方や髪の結い方といった身支度、それから…ウフフ…男性にリードされて踊るダンスなんて言うものもあったな。覚える事は際限なくあって…大変だったけど、全然苦にならなかった。ぼくの人生に、初めて未来というものが開けてきたから。そうしてぼくの旅券が整うまでの一ヶ月をミュンヘンの他のアジトで過ごして、その後ぼくはアレクセイとアルラウネと共に…ロシアへ旅立って行ったんだ。その時に投函したのが…母さんの持っていた手紙。ごめんね。母さん。過去を捨て、そして未来の展望もなかったぼくには、結局あれしか書けなかった。
ロシアへ渡った間も無く、ぼくは…第一子…つまりミーチャを妊娠している事に気付いた」
「それって…」
目を丸くしてそう言ったレナーテとヘルマンに
「ああ。…あのミュンヘンのミモザ屋敷でこいつを初めて抱いた時…だな」
少し決まり悪そうに鼻の下をこすりながらアレクセイが付け加える。
「なんか体調が悪いなあ、でもアレクセイとアルラウネに迷惑をかけることは出来ないなあと不調を隠していたものの、とうとう倒れてしまって…。お医者様に妊娠を告げられた時に、とても驚いたけど…絶対産みたいとそう思った。危険な反政府運動に従事している二人に、ただでさえ足手まといなぼくが、こんな時に子供まで授かってしまって、嬉しい一方で二人に申し訳ないと思っていたぼくに、アレクセイもアルラウネも…ぼくのお腹に宿った新しい命を…とても喜んでくれた。…嬉しかった。この子は歓迎されてこの世に生まれ出る命なんだ。皆から歓迎されている子供なんだと思うと…嬉しくて涙が出て来た。それと共に、あんなに周りから後ろ指指されながらもぼくを生み育ててくれた母さんの勇気と強さを改めて思い知り、母さんのかけてくれた愛情をしみじみと噛みしめた。ぼくも…生まれた子供に母さんのような愛情を存分にかけて育てようと心に決めたんだ。
そんなこんなでこれ以上足手まといにならないようにぼくは妊娠中にアルラウネからタイプライターや簿記なんかを教わって、後々皆の役に立てるような技能を身につけながら産み月を迎えた。
出産は、とても安産だった。
ぼくは1905年の8月の終わりに、元気な男の子を産んで…16でママになった。
その時の元気な赤ちゃんが、この子。ミーチャ。幸いぼくは意外とタフに出来ていたみたいで産後の肥立ちもよくおっぱいも沢山出て、この子もあまりぐずったりしない元気で性のいい子だったんで、育児で苦労すると言うことは…あまりなかったかな。
ぼくは愛する夫と敬愛する義姉と、それから可愛い息子と…相変わらず生活は苦しく、官警の目を避けて暮らす日々だったけれど、このまま幸せな時が続くものだと思っていた。
そんなぼくに…ぼくら一家に最初の試練が訪れたのは、その年の末だった。
17年のロシア革命に先立つこと12年前、1905年に第一次ロシア革命と言われる、民衆から興った革命運動があったのを…覚えているかな?その時の反政府運動の一つ、11月のモスクワ蜂起に、アレクセイは参戦したんだ。その前に同じゴールを目指しながらも異なる道を歩み始めた義姉のアルラウネと袂を分かって、アレクセイはぼくに息子の事を託し、ぼくらをペテルブルクに残し、単身モスクワへと発った。
ー モスクワ蜂起は…アレクセイの戦った民衆側の敗北に終わった。
アレクセイたちは捕らえられ、刑に処された。
それでアレクセイは…死刑が言い渡され…結局は何故だか…終身刑に減刑されたのだけど、シベリアの強制収容所へと送られた。
…ぼくと赤ん坊の息子は、ロシアへ来てわずか一年で、異国の地に二人残された」
淡々と静かに語る娘の辿ったその人生の試練にレナーテが思わず息を呑む。
女一人で子供を育てる困難さは、何より自分が一番身にしみて分かっている。
自身も幾度もあまりの生活の厳しさに身を堕としかけた。
しかも娘は右も左も分からない異国の地での、女手一つの子育てだ。
その苦労はレナーテの苦労の比ではなかった筈である。
「…あなた…あなた、一体その後を、頼る人もいない…異国の地でどうやって…?」
レナーテの声が思わず震える。
「うん。幸い…アレクセイがモスクワへ発つ前に、ぼくら親子の身柄を彼の古い同志で友人に託していってくれていた。それにアルラウネがぼくに何とか社会で生きていけるような技能を授けてくれていた。それで…ぼくはペテルブルクの一角の小さなアパートで息子を育てながら、ボリシェヴィキの一支部で事務の仕事を得て、アレクセイがいつか戻ってくる日を、息子と二人で待ち続けていた。ぼくはとても恵まれていてね、ミーチャが乳離れするまで、子連れ出勤を許可してもらえていたんだ。それで空いた時間にミーチャの世話をしながらフルタイムで仕事をしていた。ミーチャがある程度大きくなったら同志の奥さんに預かってもらって仕事を続けながらアレクセイの帰りを待っていた。…それが6年続いた」
「僕が生まれて、物心ついた時に父はいなくて、暮らしも貧しかったけど、母は優しく、周りの人々…大家さんや市場の人たち、それに同志の家族はみんな僕らの生活を温かく支えてくれていた。ムッターにとってはとても大変な時期だったと思うけれど、ぼくはとても満たされて、幸せだった」
ー ね?
そう言ってミーチャがユリウスに目配せした。
そんな息子にユリウスも頷き微笑みかける。
「生活は常に苦しかったけど…苦しくても…苦しい時こそ、母さんの事を思った。女手一つでぼくを優しく慈しんでくれて、音楽学校にまでやってくれた母さん。母さんの存在が、いつもぼくの励みになっていた。離れていても、母さんの存在はいつもぼくの中にあり続けた。ぼくは妻になって母になって…いつも母さんと共に生きて来た」
「それは…お母さんもまた同じだと思うわ」
そこでエレオノーレが初めて口を挟んだ。
作品名:intermezzo ~パッサウ再会篇6 作家名:orangelatte