冒険の書をあなたに2
ふと、自分がもし今悪魔の書だったら────という妄想が頭の中に浮かんで、本に感覚があるならばきっと、あんなふうに身悶えてしまうのも仕方ないんじゃないか、などと思い至って笑いがこみ上げてくる。
ふふと笑い出したアンジェリークへ、ほんの少しだけ顔を離してルヴァが首を傾げる。
「どうしたんです、急に笑って」
「いまね、わたしが本だったらって考えてたの。こんなふうに触られたら、確かにあんな声出ちゃうわ」
金の髪を指先に絡め取りながらアンジェリークの言葉に耳を澄ませていたルヴァが、ゆるゆると口角を上げた。
「とんでもない。あなたとあの本を同列にしてはいけませんよ……どう違うのか、今から試してみましょうか」
アンジェリークの口が了承の意を示す前に、ルヴァの手が背中のファスナーを引き下ろす。
「そうね……証明して見せて」
柔らかな絹地のドレスが足元に輪を作り、たちまち熱い腕に抱きすくめられる。
ルヴァの唇と手がやがて遮るもののないアンジェリークの素肌を巡り、彼女が堪え切れず歓喜と降伏の声を上げるまで絶え間なく続いた。
日が傾き、部屋に落ちる影の濃さが短い逢瀬の終わりを告げてゆく。
ルヴァが来たのは確か、午後の休憩の終わり頃だった────とアンジェリークが時間の概念をようやく取り戻した頃、優しく髪を撫でる彼に身を寄せながら甘い疲労感に満ちた身体を愛おしみ、矢のように過ぎた蜜月の時間を惜しんだ。
「そういえば……」
少し眠そうにゆっくりと瞬きをしながら、ぽつりとルヴァが口を開く。
「先程ロザリアが気になることを言っていたんです。悪魔の書のことを、私の本だと」
すっかり乱れた寝台が視界に入ってしまい恥ずかしそうにうつ伏せたアンジェリークが微笑み、ルヴァの疑問へ答えを返した。
「ああ……ルヴァのサクリアが残ってたからよ。その前にもあなた、サクリアを使ったみたいだし……それで何かあったのかと思って執務室に行ったの」
サクリアの枯渇が近づいているときにも加減ができなくなったり不安定な状況になったりするという話を思い出し、アンジェリークはもしやと思ったのだった。
心配したんだから、と小声で拗ねる姿の可愛らしさに口元が思い切り緩むのを堪えつつ、ルヴァは謝罪する。
「やはりご存知でしたか、勝手なことをしてすみませんでした。悪魔の書がこちらのサクリアを吸収してきたので、降参するまで目いっぱい注ぎ込んでみたんですよー」
「そうだったの……じゃあ地の力が足りてなさそうなところへ振り分けておきますね」
アンジェリークの表情から先程までの甘さが抜け宇宙を統べるもののまなざしに切り替わったのを見て、ルヴァは退出する時間が来たと悟った。
あと少しだけこうしていたかった────と名残惜しむ気持ちがそのまま態度に出て、指先が彼女の顎を捉え、間髪容れずに唇を重ねる。桜色の唇を塞いでいる間中、ルヴァは自嘲気味に笑いたくなった。
(あと少し、だなどと……本当は一秒だって離れていたくないのに)
一緒にいるのが当たり前になればなる程に、今度はその時間をどこまでも引き延ばしたくなる。そんな強欲さが自分の中にもしっかりと存在しているとは思いもよらなかった。
「……まだ離したくないんですけど、仕方がありませんね。宇宙の安定のためにあなたを貸し出しますよ」
そう言って仏頂面を作ってみせると、アンジェリークがくすくすと笑った。
「渋々?」
「勿論、渋々です」
「じゃあ、わたしも渋々ですけど女王陛下に戻るから、ルヴァも、ね?」
ぎりぎりしわにならないレベルでざっくり畳まれ放置されていた執務服を拾い手渡してきたアンジェリークだったが、ルヴァがそれを手にしても離そうとしない。
「……アンジェ?」
「まだ、やだなー。ねえルヴァ、職権乱用してもいーい?」
口を尖らせて上目遣いに見上げてくるアンジェリークを真っすぐに見つめ、遠慮がちに微笑んだ。
「陛下のお心のままに……と言いたいのは山々なんですがね、それはいけませんよ」
と形式上言ってはいるが、ルヴァがここで是非どうぞと言ったとしても、彼女はきちんと分別を見せるだろうことは分かり切っていた。
歳が離れているせいか、ルヴァからすればアンジェリークのわがままなどさして困った内には入らない。普段から精一杯責務を果たしている上に愚痴一つ言わずにいるのだから、ここで彼女がもっと聞き分けのないことを言い出したとしても、実際ちっとも構わないとすら思っている。
「……言ってみただけよ、ちょっと困らせてみたかったの」
言葉尻に寂しさを漂わせ、ほんの少し落胆の色をみせている。それでも彼女の手はそろりと執務服から離れた。
「本当にお望みであれば残ってもいいですが、それで困るのは私ではなくあなたとロザリアですよ。……どういうことだか、分かりますか」
青灰色の瞳に上乗せされた熱が、絡み合った視線からアンジェリークの体の中を突き抜けて、頬を赤らめさせた。
「分かるような気もするけど、なんか聞かないほうがいい感じがしてきたわ……」
「そうですねえ、そのほうが賢明でしょう」
うんうんと頷いて笑みを浮かべた。
(そう言ってくれなくてはね。でないと私はあなたに可愛いわがままを押し通させて、またあなたの声をすっかり枯らしてしまうでしょうからね)
かねてからの決意通り、これだけ濃密な時間を共にしていてもルヴァはまだアンジェリークの最奥を知らない。しかしそれ以外では度々触れ合っているため、大概は研究熱心なルヴァのせいでアンジェリークが意識を飛ばしてしまうようになった。そしてその結果、翌日にも続く声枯れが彼女の悩みの種である。
すっかり神鳥の女王の姿に戻ったアンジェリークが鏡の前で髪とメイクを直し、くるりと振り返る。
「さっきの……悪魔の書、図書館に出たって言ってたわよね」
「ええ、そうです。ここに出てきた通り、彼は本棚がある場所へならどこにでも行けるようですが……」
ターバンを巻いたルヴァも鏡で仕上がりを確認しながら言葉を返した。
「それって次元を超えてでもできる、ってことみたいよね……」
それきり小難しい顔をして黙り込むアンジェリーク。
「アンジェ、どうしたんですか」
真剣みを帯びた顔つきに、ルヴァの声も僅かに固くなった。
「場所が場所だし一応オスカーにも話してみるわ、ここ最近ちょっと気がかりなことが増えてるの。市民に被害が出る前に対策しておかなくちゃ」
頭の中で言葉を選んでから口を開いているふうのアンジェリークへ、ルヴァは短い質問を投げかける。
「気がかりとは?」
「時空に歪みが生じているんですって。それについては研究院からの報告書をそちらに回しますから、目を通しておいて。悪魔の書のほうはあなたに任せるわ」
緊張を孕んだ声のままでルヴァの胸へと寄りすがるアンジェリークを反射的に抱き締めながら、ルヴァは不安げに揺れる翠の瞳を見つめ返した。
「……とても邪悪な波動を感じるの。だけどそれを上回るくらい、強い思念が届いてる……」
作品名:冒険の書をあなたに2 作家名:しょうきち