冒険の書をあなたに2
女王の私室にはまだ補佐官がいると見込み、なんとか面会させて貰えるよう頼み込もうとやってきたルヴァだったが、予想通りロザリアからの恐ろしく凍てついた視線と声が突き刺さる。
「…………どうぞお引き取りを。陛下はどなたにもお会いになりません」
扉の前に立ち塞がり、たとえ恋人と言えど絶対に通さないという意志のこもったまなざしが、少しも外されることなくルヴァのまなざしとぶつかっている。
「地の守護聖が来たとお伝えください。早急にお話したいことがあります」
「その必要はございませんわ。お引き取りください……今すぐに」
最後を酷くゆっくりと念押しして言い切ると、杖を持つ手に力がこもった。
「いいえ、帰りません……それで殴るのでしたら幾らでもどうぞ。それでも私は、陛下に会うまでは絶対にここを退きませんから」
意地の張り合いだ、とルヴァは思う。暫し睨み合いが続いた後、ロザリアが微かに息を吐いた。
「ルヴァ。以前にも言いましたけれど────そのお話、今日でなければいけませんか?」
それはこの麗しき補佐官と女王陛下がまだ候補生として飛空都市で試験をしていた頃、アンジェリークからの告白に応えるためルヴァが訪れたときの言葉だ。
あのときも引き下がらなかったけれど、今回ほどおとなしく引き下がっていてはだめな場面は早々ない────そんな思いが気迫となって、ルヴァの表情を一層真剣みを帯びたものへと変えている。
「当然です。誤解とはいえあの方がいま傷ついているのに、のんびり出直している時間なんてありませんよ。一秒たりとも無駄にしたくないんです、お願いですから会わせてください」
どう頑張っても帰る気がないとすぐに理解した(否、諦めたというべきか)ロザリアが、ルヴァをその場に待たせて室内へ入っていく。彼女とて親友であるアンジェリークが泣いている姿に心を痛めたに違いない。
ここで立ち往生するのを予測して、念のため最終手段で悪魔の書をもう一度送り込む手筈を整えている────ロザリアをこちらに引き付けておけば、恐らく短い会話くらいはできるだろう。
そうして扉の前で待つ間、過ぎ行く数分が一時間にも感じられた。
静かに扉が開きロザリアがゆっくりとルヴァを促す仕草をしたことで、彼の体内時計は再び通常の流れを取り戻した。
「お会いになるそうですわ。……あなたの本はわたくしが預かりますけれど、いいですね?」
ルヴァの眼前に白魚のような握りこぶしが翳され、そこには紐で十字掛けされた悪魔の書がぶら下げられていた。
(既に捕まってるじゃないですか……!)
「わたくしは執務室におりますから、後はよろしくお願いします」
先程よりは幾分和らいだ声音で告げると、悪魔の書をぶらぶらと振り子のように振り回しながら去って行った。
補佐官預かりならば勝手に悪さをする心配もないだろう────そう安堵して、女王の私室へと足を踏み入れていく。
内側からしっかりと施錠して、奥へと歩を進める。
ここは幾度も訪れているはずなのに、今日は緊張しているせいなのかやたらと喉が渇きを訴えている。
椅子に腰かけて窓の外へと視線を流しているアンジェリークの姿を目に留めて、ルヴァは恐る恐る声をかける。
「…………アンジェ」
はっきりと赤く腫れたまぶたが痛ましくて、それなのに心の片隅ではこんなに想われているのが嬉しくもあって、ルヴァの中にあらかじめ用意されていた言葉が次々と意味を失い、砕け散っていく。
頭の中では真っ先に謝罪の言葉を言おうと思っていたのだが、よく考えればそもそもが誤解である。謝罪の順序を見誤れば浮気をしたと認めたことになってしまう。
どう言おうかとぐるぐる考えている内に、俯いたアンジェリークの大きな瞳から玻璃の雫がぽろりと零れ落ちた。
どんな言葉よりも雄弁に語るひとしずくに頭の中が真っ白になって、思わずアンジェリークの側に駆け寄り両手を握り締めた。
「泣かないでください、お願いです……私は、決して」
握り締めた手がとても冷たくて、ルヴァは熱を分け与えようと包み込む。
「決してあなたを裏切ってなんかいません。本当です、どうか説明させてください」
まだアンジェリークの口からは何の言葉も出てこないままだったが、ルヴァの手を振りほどくこともなく、涙に濡れたまなざしでこくりと頷いた。
いまだどことなく緊迫した空気に満たされている室内で、ルヴァは慎重に慎重を重ねて言葉選びに神経を研ぎ澄まし、ゆっくりと口を開いた。
「……先程、動き回る変な本がこの部屋に現れましたよね」
アンジェリークの小さな唇がこれまた小さく肯定の形に動いたのを確認し、ひとつ頷く。
「あなたが来ていたときにはね、ちょうどあの本の修繕をしていたんです」
少し潤んだままの翠の瞳が、じいっとルヴァを見つめる。どうか信じて欲しいと願いながらルヴァは話を続けた。
「あの本は自らを悪魔の書と名乗りましてね、図書館に出没したのを私が捕まえました。……リュカたちの世界の呪文を使っていましたから、これから話を聞き出そうと思っていたんです」
リュカの名を聞いた途端にアンジェリークの目が丸くなり、再び緊張の色を見せる。
どうして聖地へ来たのか、どうやって辿り付いたのか、そしてなぜ人の言葉を話せるのか────ルヴァが問いたいことはたくさんある。
「彼は古の知識の集まりなんだそうで、ボロボロになっていたのをどうしても見過ごせなくて」
そこでアンジェリークの表情が和らいだ。ようやく彼の行動に合点がいったということなのだろう。
「可哀想だって思ったの?」
「ええ。何であれ経年劣化は免れないものですが、それでも酷いありさまで……ある程度修繕すれば、これからも多くの人に知識や知恵を授けてくれるんじゃないかと思いましてね。それがまさかこんなことになるなんて、思ってもいませんでした」
誰もが皆ルヴァのように本を大切に扱う人間ばかりではない。ここ聖地の図書館でも、中には勝手に書き込みをしたり折り目を付ける者もいると聞いている。そしてそれについてルヴァがもどかしそうにしていたのも、知っていた。ほんの少しでも冷静に考えれば分かるはずだったのに、頭に血が上っていて気づけなかったのは自分の手落ちだ────とアンジェリークは項垂れた。
白い指先にそうっと唇を押し当てるルヴァの伏し目がちな表情が、アンジェリークの目にはまるで神に懺悔をする修道士のようにも見えて、自責の念が反省の言葉となって素直に口から零れ出る。
「お話は分かりました。誤解して叩いてしまってごめんなさい……」
ようやく緊張が解けたルヴァの頬に少しだけ赤みがさし、喜ばしさに満ちた安堵の吐息を漏らした。
「いいんです。私こそ本当にすみませんでした────仲直り、してくれますか?」
ルヴァの手がアンジェリークの顎にそろりと伸びてきて、二人の間の距離が縮まっていく。それを合図にして彼女がついと顔を上げると、温かな手は頬からこめかみへと滑り金の髪に触れた。
優しい口づけを受けている最中、ルヴァの指先がアンジェリークの耳の輪郭をゆっくりとなぞり、その刺激にぞくぞくと高揚を覚えた。
作品名:冒険の書をあなたに2 作家名:しょうきち