冒険の書をあなたに2
時空の歪み自体はこれまでにも幾度か発見されており、それによる不可思議な現象も起きてきた。だが神鳥の宇宙全域から届く様々な思念や祈りの声にも動じない彼女を、こうも恐れさせるとは────と、ルヴァの脳内で警鐘が鳴った。
「何かまだ心配でも?」
そう問いかけると、静かに背伸びをしてルヴァの頬に軽く口づけてくる。
「まだ分からない部分が多くて……でもきっと大丈夫、乗り越えられるわ」
しつこくこびりついている不安を微笑みでもって胸の内から追い払うアンジェリークに、ルヴァは暫しの沈黙の後に穏やかな声で答えを返した。
「念のため、一度守護聖全員に招集をかけてみられてはどうですか。皆で情報を共有していれば、有事であっても迅速な対応が取れるでしょうから」
光を取り込んだ翠の瞳が弧を描き、安堵の表情へと変わる。
「そうね、そうしてみるわ。ありがとうルヴァ」
そうして二人は再び忙しい日常の中へと戻っていく。
回り始めた運命の輪が、もう既に彼らを待ち構えているとも知らずに────
時は少し遡り、ルヴァの執務室では気を失っていたマルセルが目を覚ましていた。
事態が呑み込めない様子できょろきょろと辺りを見回しているマルセルへ、オリヴィエが声をかける。
「おはよ、マルセル。気分はどう?」
「あ……オリヴィエ様。それにランディも…………そっか、ぼく、気が遠くなっちゃって……」
のそりと起き上がるマルセルの背を支え、ランディがほっとした様子で口角を上げている。
「あんな状況だったしな、無理もないよ。結局のところオレたちの誤解だったんだけどさ。だからもう何も心配いらないんだ」
「えっ、どういうこと」
すみれ色の瞳を丸く見開いたままぱちくりと瞬くマルセルへ、ちらりと視線を向けたオリヴィエが前髪をゆっくりとかき上げながら言葉を返した。
「あれはルヴァの浮気じゃなかったってコト。まーそれについては後でゆっくりね。それよりも────」
新たに淹れた緑茶が三つの湯飲みから湯気を立てている。その中のひとつをマルセルに手渡して、オリヴィエの表情が真剣みを帯びた。
「あんたが見たっていう夢の話、聞かせてくれる?」
オリヴィエに促されこくりと頷いてみるものの、何から話せばいいのか迷っているのか口元だけが僅かに動き、それからまるで何かを恐れるように自らの体を抱き締めた。
「夢自体はそう大したことじゃないんです。その……送りすぎたサクリアを戻した後みたいに、植物が沢山枯れていって……外は嵐なのに何の音もしないし、凄く不気味でした」
マルセルが司る緑のサクリアは、星々へ豊かさをもたらす力だ。物質的にもたらされた豊穣は生き物の繁栄に結びつくが、不足すれば飢饉へと繋がっていく。精神面に関して言えば心の豊かさは他者を許し愛する余裕となり、不足はそのまま諍いの火種となり得る。その繊細さを表すように、若さゆえの未熟さとも言えるがマルセル自身もまた感受性が強く心優しい守護聖だ。
そこへノックの音が響いて、返事をする間もなくゼフェルがつかつかと入ってきた。苛ついているのか、後頭部を掻きながら舌打ちしている。そしてその視線の先にはオリヴィエがぺろりと舌を出していた。
「おーい夢の守護聖サンよー、なんで自分の執務室にいねえんだよ。もぬけの殻だったからあちこち探しちまったじゃねーか」
ゼフェルもまた勝手知ったるルヴァの執務室────煎餅の入った一斗缶を遠慮なく開けて人数分選び出し、それぞれへ放り投げた。
「ごめんごめん、ちょ〜っとトラブってたもんだからさ。そっちはどうだった?」
両手を頭の後ろで組んだゼフェルがソファにもたれかかり、ぼりぼりと煎餅をかじりつつ頷く。
「やっぱなんかあったみたいだぜ、いずれ分かるっつって黙っちまったけどよ。……で、なんでおまえら集まってんだよ。おっさんどこ行った?」
ランディとマルセルも受け取った煎餅を小さく割って口に運ぶ。ゼフェルの問いにはオリヴィエが答えた。
「えっとねー、話すと長くなるから簡単に言うと、ルヴァが陛下から全力ビンタ食らって、たぶん今必死で謝罪中〜」
ざっくりすぎるがほぼ合っている説明に、はは、とランディが乾いた笑いを浮かべ、マルセルは悲し気に眉尻を下げた。その二人へ視線を走らせ、ゼフェルが片眉を上げた。
「んだよ、痴話ゲンカかぁ? あの二人にしちゃ珍しいな」
ゼフェルの言葉を受け、オリヴィエが更に続ける。
「ケンカの元になった経緯がちょっと酷かったからね……喋る本が図書館に出たんだってさ。そいつのせいで浮気を疑った陛下が大泣き、マルセルは失神」
「待て、話が全く見えねー」
ゼフェルがしかめっ面でずびりと緑茶をすすっている横でオリヴィエも煎餅を食べ始め、一口分を飲み込んだところで喋り出す。
「とにかく、あんたと私とマルセルは妙な夢を見て、ルヴァは変な本を捕まえて、クラヴィスにも何かがあった、っていうのが現在の状況。……あんたの勘、当たったね」
ゼフェルは褒められても別に嬉しくないとでもはっきり書いてありそうな複雑な表情で肩を軽く竦ませ、再び湯飲みに口をつける。
そこへ扉が小さく開く音が聞こえ、この執務室の主がようやく戻ってきたのが見えた。足音を立てず静かに歩いてきたルヴァは、どこか晴れやかな様子だ。
「いやーすっかり遅くなってしまいましたねー。ああマルセル、気が付いたんですねー。医務室へは行かなくて大丈夫ですか」
元気そうな緑の守護聖の姿にほっと胸を撫で下ろしふんわりと笑みを浮かべたルヴァへ、マルセルがぺこりと頭を下げた。
「あ、はい。ご心配をお掛けしました。あの、もう大丈夫です」
「それは良かった。しかしまあ、ゼフェルまで集まってどうしたんですか一体……」
のんびりとした足取りで集まった面々のもとへ近付いてきょろっと見渡し、そのまま空いている席へと腰を下ろす。何かを求める青灰色のまなざしを受けてオリヴィエの顔つきが僅かに変わり、妙に落ち着いた声音で話し出した。
「その様子だと無事に誤解は解けたみたいだね。……陛下に何かお変わりはなかった?」
マルセルが二人の会話の邪魔をしないよう、そろりとルヴァの分のお茶を淹れて目の前に置く。ルヴァはそれへちらと視線を向けてからマルセルに会釈し、オリヴィエの質問に答える。
「先程の件に関してはきちんと説明してきましたから、もう大丈夫です。ただ……」
マルセルの横ではゼフェルがごく普通に一斗缶を開けて中を漁る音が響き、マルセルのささやかな気遣いを思い切り台無しにしていたため、向かいに座るランディが顔をしかめて諫めている。
だがオリヴィエとルヴァの間に漂うどこか緊迫した空気が変わることはなく、若手三人のことなど既に意識の範疇にはないようだった。
「詳細はまだ分かりかねますが、陛下はここのところ邪悪な波動を感じると仰っていました」
ルヴァの口調が更に重苦しさを増したことで、他のものたちは一様に口を閉ざした。それは今現在、彼らの身に起き始めた異変がとても重大なものであると示しているからだ。
「ですので、近いうちに女王陛下から我々守護聖全員にお話があると思います」
作品名:冒険の書をあなたに2 作家名:しょうきち