冒険の書をあなたに2
こく、こくと水が喉を通っていく。グラスに注いだ水はすぐになくなり、マルセルは渇きを満たしてふうと息を吐いた。
(南のソレッタはあんなに緑豊かだったのに、どうしてここだけ砂漠なんだろう)
少し動いたためかすっかりと眼が冴えてしまい、マルセルはもう一度世界樹を眺めに行こうと寝台へ戻り、上着を手に取った。
微かな物音に、隣のルヴァがうっすらと瞼を開ける。
「……マルセル?」
「あ……起こしちゃいましたか、すみません」
声を潜めて謝罪の言葉を口にするマルセルへ、ルヴァはゆっくりと身を起こして問う。
「いえ、構いませんよ……こんな夜中にどこへ行くんです?」
「眼が冴えちゃって、ちょっと散歩でもしようかなって」
すぐにクラヴィスからの予告が脳内をよぎった。それを気取られぬように、いつもの笑みを形作って立ち上がる。
「それなら、私もお付き合いしますよ」
二人で宿を出て、目前に迫る巨木を眺めた。
「ルヴァ様、ぼくさっき考えてたんです。どうしてここだけ、砂漠になってるのかなって」
「あー、そうですねえ……これは私の個人的見解なんですがね、世界樹が土の栄養を取り込んでいるからではないかなーと思うんですよ」
「これだけ大きい木ですもんねー」
(誰か……)
微かな人の声とともに甘い香りが鼻先にまとわりつき、不思議そうな顔で世界樹を見上げたマルセルへ、ルヴァはクラヴィスの忠告を知らせておこうと口を開いた。
「それはそうと、マルセル。あなたにひとつ話さねばならないことがあるんですよ」
(誰か来て……)
ルヴァの言葉は耳に入っていない様子で、マルセルがしきりに辺りを見渡し始めた。
「……声」
「はっ?」
「誰かの声がしませんか、ルヴァ様。それに……なんだろう、とても甘い匂いがする」
マルセルは声の主を探そうとしているのか、数歩世界樹の方向へ歩き出す。
「いえ、私には何も……ちょ、ちょっとマルセル、どこへ」
夢遊病者のようなふらふらとした足取りに異様さを覚え、ルヴァは咄嗟にマルセルの腕を掴み引き留めた。
「人を呼んでるんです。世界樹の中に誰かいるみたい、早く助けてあげないと……!」
ルヴァの手を振り解こうともせずただそのまま前進を続けるマルセルを前に、ルヴァの脳内では危険信号がアラームを鳴らし始めた。
「お待ちなさい、行ってはいけません。日が昇ってから皆で行きましょう、ね?」
「だめ、今じゃないとだめなんです。ごめんなさいルヴァ様、ぼく、行かなきゃ……!」
とうとうルヴァの制止を振り切って、マルセルが駆け出していく。
「まっ、待ってください! 戻っていらっしゃい、マルセル!!」
世界樹は幹の中に入れるようになっている。マルセルはその階段のようになっている根を駆け上がり、姿が見えなくなった。
ここで反射神経のいい者であったら即座に追い付けたのだろうが、ルヴァは一瞬思案に暮れてしまった。
その一瞬の判断の遅れにより、彼がマルセルと同じく中へ入ろうとした寸前、周囲から伸びてきた根や枝によって入り口を塞がれ、マルセル一人が世界樹の中に閉じ込められる結果となった。
恐ろしい速さで閉じられた出入り口の前に、ルヴァは呆然と立ち尽くす。
「……なんてことでしょう……クラヴィスが予告してくれていたというのに、私ときたら……」
己のふがいなさに苛立ちを募らせたルヴァは思わず幹を両手で叩いたが、世界樹はびくともしなかった。
「……マルセル……!」
悔しさに、ぎゅうと握り締めた両の拳に痺れが走った。
だがすぐに頭の中で幾つもの救済策が練られ始め、まずは残りの仲間に伝えようとその場を後にした。
急いで宿に戻ったルヴァに起こされたソロとポピーは、話を聞いて世界樹の前にやってきた。
ソロが出入り口の幹をくまなく探り、ガシガシと頭を掻きながら舌打ちをしている。
「だめだ。ギッチリ埋まってやがる……ぶっ壊して入るか?」
おもむろに天空の剣を構え出したソロをルヴァは慌てて止める。
「あああ、それはまだ待ってください。マルセルは『助けてあげないと』と言っていました。人を呼んでいたらしいので、必ずしも悪しき存在かどうかは……」
心配そうに世界樹を見上げていたポピーが口を開いた。
「でも……クラヴィス様の話だと、取り込まれてしまうかもしれないんですよね?」
弱い月明かりもない中で、さわさわと風に揺れる葉が黒く大きな影に見える。
ソロが無感情に幹をさすりながら、ぽつりと話し出した。
「世界樹はな、何かと天空城と関わりが深いんだ。この剣もここのてっぺんの辺りにあったし、天空人が降りられなくなってたりな」
淡々とした口調で話して振り仰ぐソロの横顔は、どこか神々しい光を纏っているようにも見え、ルヴァとポピーはその姿から目を離せずにいた。
「……マルセルがその何とかって力を世界樹に持ってかれたのも、天空城だったよな?」
ちらりと横目でルヴァを見る。硬い表情で頷くルヴァへ、ソロは再び世界樹に視線を戻して決断を下す。
「よし、今は待機だ。飛び込んでいったあいつ自身が、自力で何とかするのを待つ」
この決断は、ソロ自身が旅をして回った中で身に着けた、勘のようなものだった。
今まで天空城に関わる事柄で苦労をしたことは幾度もあったものの、あくまでもそれは試練と呼べる範疇であり、禁忌を犯した者以外の人間に直接の害をなしたことはない────その経験から導き出された答えだ。
困ったように顔を見合わせている二人へ、にやりと片頬を吊り上げたソロが自信たっぷりに告げた。
「……いざとなったら、こんなもんブチ破ってでも助けてやるさ。それでいいだろ?」
一方、世界樹内部のマルセルは閉じ込められたことに気づいたが、クラヴィスの言葉を思い出しじっと周辺の様子を探った。
「……ここが世界樹の中なのかな、全然見えないけど……」
洞が出入り口になっていたが、内部も相当広いようだ。独り言すらやたらと大きく反響して驚いたマルセルだったが、意を決して声を張り上げた。
「だ……誰かいませんかー!」
先程の声は聞こえないばかりか、生き物の鳴き声すら聞こえず、ただどこからか漏れ入ってきた風の音だけがびゅうびゅうと響いていた。
マルセルは灯りになるようなものは何も持っておらず、暗闇の中を四つん這いになり手探りで恐る恐る進んでいく。
目が慣れてきた頃、あちらこちらにぼうと光を放つ茸の群生を見つけた。
指の先程の小さな傘に長い柄、蛍光グリーンにぼんやりと光る茸は広範囲に渡って発生し、洞の中を仄かに照らす。
(……ヤコウタケみたいだ。こんなに沢山あるのは、初めて見たな……)
灯りを見つけ喜んだのも束の間、マルセルはきゅっと眉根を寄せる。
(でも何かおかしいなぁ。発光性の茸は枯幹や枝に着くはずなのに)
良く見れば道案内の矢印のように壁面を彩っていて、ひとまず声の主を探そうと歩き始めた。あの弱々しく悲し気な声が、マルセルの耳から離れないでいる。
光る茸の案内に従って登ると、やがて窓のように洞から外が見える場所に出て、そこに座って外を眺めている者を見つけた。
作品名:冒険の書をあなたに2 作家名:しょうきち